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第二話:邂逅
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結婚相手は、父が勧めた地元有力者の娘・ヨウコだった。
一族の総意でもあるこの結婚に、抜け殻となっていた私が逆らうことはできなかった。
エリとの別れの真相を知ったのは、結婚式の直後だった。 父が酒の席で得意げに親戚に漏らしたのだ。
「あの女の親の借金を肩代わりして、手切れ金を渡して別れさせた」と。
エリは私を裏切ったのではなかった。 彼女は、家族を守るために、家族の事情のために彼女自身が犠牲になったのだ。
この三十年、父の地盤をついで政治家となった私を、ヨウコは献身的に支え尽くしてくれた。 彼女は賢く、慎ましく、政治家の妻としても、母としても完璧だった。
だが、私の心の中には、常にエリの亡霊が棲みついていた。
もし、あの時。 父を捨て、家を捨て、全てを敵に回してでもエリの手を取って駆け落ちしていたら。
その「もしも」という毒が、夜毎私を苛み続けた。
ヨウコは頭のいい女だ。 私の心がここにあらずであることなど、とうに見抜いていただろう。
結婚して数年が経ったある夜、背中合わせのベッドで彼女は闇に溶けるような声で呟いた。
「……あなたが私を振り向いてくださるまで、いつまでも待ちます」
その声は震えていた。
そこまで言わせてしまったことへの罪悪感が、私を縛り付けた。 だから私は、せめて彼女を不自由にさせないよう、裕福な暮らしを与え、夫としての役割を演じ、愛してきたつもりだ。
それが、私の精一杯の償いだった。
そんなヨウコとの間に生まれたのが、ケンジだ。 私は息子に、自分のような生き方をしてほしくなかった。
「家」という呪縛に囚われず、自分の意志で愛するものを守れる強い男になってほしかった。
だから私は厳しく育てた。 だが、それが仇となったのか、ケンジは争いを好まない、あまりに優しい子に育った。
どこか、私の若き日の優柔不断さを煮詰めたような男に。
「父さん、母さん。紹介したい人がいるんだ」
ケンジがそう言った時、私は心底安堵した。
親が決めた相手ではなく、自分の意志で選んだ女性がいる。 それだけで、彼は私を超えたのだと。
相手がどんな女性であれ、二人が愛し合っているのなら祝福しよう。 私が手に入れられなかった「愛による結婚」を、息子には叶えてほしい。
そう思っていた。
そう、あの日。 雨に濡れたコートを着た「彼女」が、この家の玄関をくぐる、その瞬間までは。
*
高村家の重厚な門をくぐった時。 私は自分が踏み入れようとしている世界の大きさに、思わず足を止めそうになった。
手入れの行き届いた庭木、歴史の重みを感じさせる屋敷の梁。 それらは無言のうちに、私という存在の軽さを問いかけてくるようだった。
本来であれば、こうした場には両親が同席するのが筋だろう。 だが、私の背後には誰もいない。
十二歳の冬、家族旅行の帰りに起きた交通事故。 両親は即死だった。
奇跡的に私だけが助かったが、それは「孤独」という名の長い余生を生きる日々の始まりでもあった。
父方の親戚に預けられたものの、そこはあくまで「居候先」であり「家」ではなかった。 悪い人たちではなかったが、遠慮という薄い膜が、私と彼らの間の心の距離を隔て続けていた。
高校卒業と同時に逃げるように一人暮らしを始めた。
誰にも頼らず、自分の足だけで立つ。 それが私のプライドであり、鎧だった。
人並みに恋もしたが、その鎧が邪魔をして、深く心を通わせることはできなかった。
そんな乾いた日常の中で出会ったのが、会社のメインバンクの担当者だったケンジだ。
「初めまして、高村です」
彼と視線が合った瞬間、不思議な感覚に襲われた。 彼からは、私と同じ匂いがしたのだ。
彼もまた、何か大きなものに押しつぶされまいと必死に立っているような、そんな脆さと優しさを感じた。
私たちは、嵐の中で身を寄せ合う小動物のように惹かれ合い、自然と婚約へと至った。
リビングに通され、革張りのソファに浅く腰掛ける。
「父と母を呼んでくるよ」
ケンジが出て行ってからの数分間は、永遠のように長く感じられた。
やがて、重厚な扉が開く。
「……待たせたね」
現れたお義父様は、部屋に入った瞬間、場の空気を支配した。
白髪の混じったグレーの髪、仕立ての良いスーツ。 現職の議員としての威厳と自信が、その立ち振る舞いから滲み出ている。
何より、私を射抜くその視線。
彼は私を睨んでいるようでもあり、あるいは骨の髄まで品定めしているようでもあった。 私は蛇に睨まれた蛙のように、指一本動かすことができなくなった。
どんな会話をしたのか、記憶は曖昧だ。 ただ、去り際に言われた言葉だけが、熱を持って耳に残っている。
「ケンジが選んだ女性なら、あなたは高村家の家族だ。息子をよろしく頼む」
その低く響く声に認められた瞬間。
私の心の奥底で、幼い頃に失った「守られること」への渇望が、静かに満たされるのを感じた
一族の総意でもあるこの結婚に、抜け殻となっていた私が逆らうことはできなかった。
エリとの別れの真相を知ったのは、結婚式の直後だった。 父が酒の席で得意げに親戚に漏らしたのだ。
「あの女の親の借金を肩代わりして、手切れ金を渡して別れさせた」と。
エリは私を裏切ったのではなかった。 彼女は、家族を守るために、家族の事情のために彼女自身が犠牲になったのだ。
この三十年、父の地盤をついで政治家となった私を、ヨウコは献身的に支え尽くしてくれた。 彼女は賢く、慎ましく、政治家の妻としても、母としても完璧だった。
だが、私の心の中には、常にエリの亡霊が棲みついていた。
もし、あの時。 父を捨て、家を捨て、全てを敵に回してでもエリの手を取って駆け落ちしていたら。
その「もしも」という毒が、夜毎私を苛み続けた。
ヨウコは頭のいい女だ。 私の心がここにあらずであることなど、とうに見抜いていただろう。
結婚して数年が経ったある夜、背中合わせのベッドで彼女は闇に溶けるような声で呟いた。
「……あなたが私を振り向いてくださるまで、いつまでも待ちます」
その声は震えていた。
そこまで言わせてしまったことへの罪悪感が、私を縛り付けた。 だから私は、せめて彼女を不自由にさせないよう、裕福な暮らしを与え、夫としての役割を演じ、愛してきたつもりだ。
それが、私の精一杯の償いだった。
そんなヨウコとの間に生まれたのが、ケンジだ。 私は息子に、自分のような生き方をしてほしくなかった。
「家」という呪縛に囚われず、自分の意志で愛するものを守れる強い男になってほしかった。
だから私は厳しく育てた。 だが、それが仇となったのか、ケンジは争いを好まない、あまりに優しい子に育った。
どこか、私の若き日の優柔不断さを煮詰めたような男に。
「父さん、母さん。紹介したい人がいるんだ」
ケンジがそう言った時、私は心底安堵した。
親が決めた相手ではなく、自分の意志で選んだ女性がいる。 それだけで、彼は私を超えたのだと。
相手がどんな女性であれ、二人が愛し合っているのなら祝福しよう。 私が手に入れられなかった「愛による結婚」を、息子には叶えてほしい。
そう思っていた。
そう、あの日。 雨に濡れたコートを着た「彼女」が、この家の玄関をくぐる、その瞬間までは。
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高村家の重厚な門をくぐった時。 私は自分が踏み入れようとしている世界の大きさに、思わず足を止めそうになった。
手入れの行き届いた庭木、歴史の重みを感じさせる屋敷の梁。 それらは無言のうちに、私という存在の軽さを問いかけてくるようだった。
本来であれば、こうした場には両親が同席するのが筋だろう。 だが、私の背後には誰もいない。
十二歳の冬、家族旅行の帰りに起きた交通事故。 両親は即死だった。
奇跡的に私だけが助かったが、それは「孤独」という名の長い余生を生きる日々の始まりでもあった。
父方の親戚に預けられたものの、そこはあくまで「居候先」であり「家」ではなかった。 悪い人たちではなかったが、遠慮という薄い膜が、私と彼らの間の心の距離を隔て続けていた。
高校卒業と同時に逃げるように一人暮らしを始めた。
誰にも頼らず、自分の足だけで立つ。 それが私のプライドであり、鎧だった。
人並みに恋もしたが、その鎧が邪魔をして、深く心を通わせることはできなかった。
そんな乾いた日常の中で出会ったのが、会社のメインバンクの担当者だったケンジだ。
「初めまして、高村です」
彼と視線が合った瞬間、不思議な感覚に襲われた。 彼からは、私と同じ匂いがしたのだ。
彼もまた、何か大きなものに押しつぶされまいと必死に立っているような、そんな脆さと優しさを感じた。
私たちは、嵐の中で身を寄せ合う小動物のように惹かれ合い、自然と婚約へと至った。
リビングに通され、革張りのソファに浅く腰掛ける。
「父と母を呼んでくるよ」
ケンジが出て行ってからの数分間は、永遠のように長く感じられた。
やがて、重厚な扉が開く。
「……待たせたね」
現れたお義父様は、部屋に入った瞬間、場の空気を支配した。
白髪の混じったグレーの髪、仕立ての良いスーツ。 現職の議員としての威厳と自信が、その立ち振る舞いから滲み出ている。
何より、私を射抜くその視線。
彼は私を睨んでいるようでもあり、あるいは骨の髄まで品定めしているようでもあった。 私は蛇に睨まれた蛙のように、指一本動かすことができなくなった。
どんな会話をしたのか、記憶は曖昧だ。 ただ、去り際に言われた言葉だけが、熱を持って耳に残っている。
「ケンジが選んだ女性なら、あなたは高村家の家族だ。息子をよろしく頼む」
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