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第4話 波の前日
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『ピシナム』に勤め始めて三カ月が経つと、受付業務だけではなく清掃作業も任されるようになっていた。十九時から二十一時までを受付、それから二時間の休憩をはさみつつ午前五時まで清掃に入る。これが近ごろのルーティン。
レジ内のお金に誤差が出ていないか点検していると、カシャンと鍵を置く音が聞こえた。
Rだ。
「……あ、りがとう、ございま……す」
その日のRは泣いていた。出口へと向かう彼女は足を引きずっているように見えた。
今日誘った男はそんなに乱暴な奴だったのだろうか。男の容貌を思い出そうとしたが、どうにもうまくいかない。
「磯辺くん。次、清掃だよ」
考え事をしていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
「はい。かしこまりました」
振り返ると、初老の男性スタッフが穏やかな声音で受付シフトの交代時間であることを教えてくれた。
「未清掃は?」
「そうだったね。えっとねえ……ニマルイチ、ヨン。サンマルニ、イチゴ。ヨンマルニ。だけかな」
201、204、302、315、402。
早口に並べられた数字を頭の中で部屋番号に並べ替えて、メモを取る。受付を代わる際は、前のスタッフに未清掃の部屋番号を教えてもらわなければならない。
「了解しました。ペアは?」
「中村さんだよ。もう先に清掃入ってるんじゃないかな。よろしく頼むよ」
「はい。レジ点検残りお願いします。お疲れ様です」
初老の男性スタッフに引継ぎをしてから、受付室を後にする。
更衣室で清掃着の青いツナギに着替え、201号室へと向かった。『ピシナム』は階数が低い方から上階へ向かって清掃を行う。だからRが帰った直後に清掃に行けたのは嬉しい偶然だった。
201号室に清掃へ訪れると、本当にここでセックスをしたのか疑問になるくらい、ベッドは整っていた。それでもシーツに乾いた精液が飛び散っているのを見ると、生々しい気持ちになる。
汚れたベッドの前に立っている自分を客観的にみると、胸のざわめきが引いていった。そこにはホテルマンの僕だけが残っている。
「……玄関よぉし。テーブルよぉし。ベッドよぉし」
声に出した箇所をきちんと指さし、お客様の忘れ物がないかを確認する。気分はまるで電車の運転士だ。
そしてその掛け声が切り替えの合図。
手先がかぁっと熱くなる。
交換するのは枕カバーと、ベッドシーツの二つだけ。
まずは、掛け布団を一旦広げてから縦に三つ折りにし、足の方からだし巻き卵みたいに丸めていく。掛け布団を一旦、テーブルの上に避けたら、枕カバーも外してしまう。ベッドシーツも外すけれど、思い切り引っ張らないよう気を付ける。ベッドの上に落ちた体毛などを絨毯に落とさないためだ。
ここで一呼吸いれる。慌ててはいけない。シーツの上下両端を折って中央で重ねる。重ねたところ持ち上げると揺りかごのようになるから、そのままゴミを落とさないように、今度は左右を折り曲げる。もう一度。もう一度。簡単に畳んで、枕カバーと一緒に持ってきた回収ボックスにいれておけば片づけは終わり。そしたら新しいシーツをかける。新品の画用紙くらい綺麗に敷ければ上出来だ。ここで別の誰かがセックスをしていたと、次に来るお客様に思われてはいけない。コツは、手のひらでピザ生地を伸ばすイメージ。皺なく敷き終わったら、垂れ下がったシーツの端をベッドの下に噛ませる。親指の付け根をベッドの境界に這わせるようにすると皺が寄らずにシーツを挟める。枕カバーを新しいものに代えてベッドに添えたら、掛け布団をかぶせる。最後に掛け布団の頭の方を十センチほど折って、シーツの白をアクセントにすれば、完成だ。
だいたいこの工程を三分ほどでこなす。時間をかけて丁寧にするべきだと思うかもしれないが、ベッドメイクは時間をかけすぎても皺が寄るだけだった。シーツは常に、油の引いたフライパンの上にある溶いた卵と考えなければならない。
「だいぶ早くなったね」
気だるげな女性の声が聞こえた。
顔をあげると、僕より先に清掃に来ていた中村マリーさんが腰に手を当てて後ろに立っていた。
「……いきなり、背後に立たないでくださいよ」
「声かけたけど磯辺クンが気付かなかっただけ。普通、アタシの方に挨拶しにこない?」
「あー……。それは、すみません」
マリーさんは、二〇代半ばのシングルマザーで、僕の教育係でもあった。
一部屋の清掃は二人でかかる。風呂場とベッドの清掃を分担するためだ。浴槽に水滴一つ残してはならない風呂掃除は、ベッドメイキングよりもいくらか時間がかかる。そのため経験年数が長い方のホテルマンに任せるのが『ピシナム』のルールになっていた。
「ねえ、仕事には慣れた?」
「いえ」
「いえってなに? Yeahってこと?」
「いや、まだ慣れていませんって意味です。まだ働いて、三カ月くらいですから」
「ふーん」
あんまり仕事増やさないでよ? そんな反応だった。ぱさぱさとした茶髪の長い髪を、指ですきながらマリーさんは回収ボックスにもたれかかる。
「大学は楽しい?」
「周りは楽しそうでした」
「磯辺クンが楽しいか訊いてるんだけど」
「一人でいるときは楽しかったです」
「それって大学にいる意味ある?」
「だから、大学にはもう行ってません」
「休学してるの?」
「そうです」
「もったいない」
僕が大学に通っていたことにマリーさんはとても興味をもっていた。妊娠が原因でマリーさんが高校を中退していたことは他のスタッフから聞いていた。だから、大学なんてろくなもんじゃないという表現をした。
大学がというより、人の集まる場所が、僕にはどことなく耐えがたい空気を孕んでいるように感じた。
人の顔を見ると、何故だか切り離されたトカゲの尻尾のように思えて仕方がなかった。あの部分だけ、筋肉の繊維が複雑に絡み合っていて別の生き物のように見えてしまう。
「人の足元ばっか見て話さないでよ」
うつむきながら話す僕を、マリーさんが厳しい口調でたしなめる。
「あ、はい……」
気の抜けた声が出る。
こうなったら、僕はもうダメだった。いま、マリーさんの眉間には深い皺が寄ってるだろう。目の真っ黒なところが僕を睨み付けてるんじゃないか。そう思うと頭が鉛のように重くなって、顔を、上げられなくなる。
ふとRのことが脳裏をかすめた。
顔の見えない彼女は、僕にとって優しい人間なのかもしれなかった。
「ったく……ホテルの仕事はどうなの?」
「……しっくりきています」
「若いうちから、こんな仕事してたら、これから苦労するよ?」
僕がこの仕事に勤めていることを、マリーさんはあまり良く思っていない。
マリーさんの顔をみれば、悪気があって忠告しているわけではないと一目で分かるのかもしれなかった。
けれどその視線をマリーさんの顎より数ミリ上にあげることが、どうしても遠かった。
「うーん……これかな」
マリーさんは黙った僕など放っておいて、回収ボックスを漁っていた。
「ちょっと」
語気を強くして咎めるが、マリーさんが詫びれる様子はない。
「お、あったあった」
マリーさんは先ほどまで敷いていた古いシーツを引っ張り出すと、それを自身の頭にかぶった。
「磯辺クンってセックスしたことある?」
ないと答えた。本当になかったからだ。
「そこはあるって言いなよ。レイプしたくなるから」(下に空行がなかったです)
コロコロと笑いながら、シーツでカラダを包む。最後は蚕のように膝を抱えて座ると、自分のどこかに蓋をしたようにマリーさんは静かになった。
「一緒に入らない?」
シーツにくるまった彼女が紅い唇に笑みを浮かべていた。
「……けっこうです」
「あっそ。残念。あはは」
断っても無理強いされるのではないかという心配は、マリーさんの虚ろな笑い声にかき消された。
「いまアタシ、セックスしてる」
Rの使っていたシーツだと思うと、眉間の皺が深くなった。(下数行の空行が乱れているように見えました)
「……してませんよ」
「してる。してるよ」
マリーさんは笑みを噛む。
「こうしてると、わかるよ。どうしてこの子はここでセックスしてるんだろうって。大切にされたいとか、犯されたいとか、奪いたいとか。ベッドのシーツを見たら、だいたいわかる」
じゃあ、Rは何を考えているんですか、と。言いかけてやめた。
おそらく人から聴いても意味がないし、きっと僕はそれに納得できない。
生きていることを忘れたように丸まったマリーさんを見ていると、201号室が空くのをじっと待っているRと似通ったものを感じた。
Rが僕のなかで存在を大きくしていくのに、時間はかからなかった。
男が出ていって、Rだけが部屋に残る三〇分と少しはただただ彼女のことを考えた。
金魚を眺めているのだろうかとか。今日来た男は少しだけ優しそうだったとか。どうしてあんなにも泣いてしまうんだろうとか。
彼女はどうしているのだろうと考える三十分。その時間は、僕にとって何より特別な時間になっていった。
レジ内のお金に誤差が出ていないか点検していると、カシャンと鍵を置く音が聞こえた。
Rだ。
「……あ、りがとう、ございま……す」
その日のRは泣いていた。出口へと向かう彼女は足を引きずっているように見えた。
今日誘った男はそんなに乱暴な奴だったのだろうか。男の容貌を思い出そうとしたが、どうにもうまくいかない。
「磯辺くん。次、清掃だよ」
考え事をしていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
「はい。かしこまりました」
振り返ると、初老の男性スタッフが穏やかな声音で受付シフトの交代時間であることを教えてくれた。
「未清掃は?」
「そうだったね。えっとねえ……ニマルイチ、ヨン。サンマルニ、イチゴ。ヨンマルニ。だけかな」
201、204、302、315、402。
早口に並べられた数字を頭の中で部屋番号に並べ替えて、メモを取る。受付を代わる際は、前のスタッフに未清掃の部屋番号を教えてもらわなければならない。
「了解しました。ペアは?」
「中村さんだよ。もう先に清掃入ってるんじゃないかな。よろしく頼むよ」
「はい。レジ点検残りお願いします。お疲れ様です」
初老の男性スタッフに引継ぎをしてから、受付室を後にする。
更衣室で清掃着の青いツナギに着替え、201号室へと向かった。『ピシナム』は階数が低い方から上階へ向かって清掃を行う。だからRが帰った直後に清掃に行けたのは嬉しい偶然だった。
201号室に清掃へ訪れると、本当にここでセックスをしたのか疑問になるくらい、ベッドは整っていた。それでもシーツに乾いた精液が飛び散っているのを見ると、生々しい気持ちになる。
汚れたベッドの前に立っている自分を客観的にみると、胸のざわめきが引いていった。そこにはホテルマンの僕だけが残っている。
「……玄関よぉし。テーブルよぉし。ベッドよぉし」
声に出した箇所をきちんと指さし、お客様の忘れ物がないかを確認する。気分はまるで電車の運転士だ。
そしてその掛け声が切り替えの合図。
手先がかぁっと熱くなる。
交換するのは枕カバーと、ベッドシーツの二つだけ。
まずは、掛け布団を一旦広げてから縦に三つ折りにし、足の方からだし巻き卵みたいに丸めていく。掛け布団を一旦、テーブルの上に避けたら、枕カバーも外してしまう。ベッドシーツも外すけれど、思い切り引っ張らないよう気を付ける。ベッドの上に落ちた体毛などを絨毯に落とさないためだ。
ここで一呼吸いれる。慌ててはいけない。シーツの上下両端を折って中央で重ねる。重ねたところ持ち上げると揺りかごのようになるから、そのままゴミを落とさないように、今度は左右を折り曲げる。もう一度。もう一度。簡単に畳んで、枕カバーと一緒に持ってきた回収ボックスにいれておけば片づけは終わり。そしたら新しいシーツをかける。新品の画用紙くらい綺麗に敷ければ上出来だ。ここで別の誰かがセックスをしていたと、次に来るお客様に思われてはいけない。コツは、手のひらでピザ生地を伸ばすイメージ。皺なく敷き終わったら、垂れ下がったシーツの端をベッドの下に噛ませる。親指の付け根をベッドの境界に這わせるようにすると皺が寄らずにシーツを挟める。枕カバーを新しいものに代えてベッドに添えたら、掛け布団をかぶせる。最後に掛け布団の頭の方を十センチほど折って、シーツの白をアクセントにすれば、完成だ。
だいたいこの工程を三分ほどでこなす。時間をかけて丁寧にするべきだと思うかもしれないが、ベッドメイクは時間をかけすぎても皺が寄るだけだった。シーツは常に、油の引いたフライパンの上にある溶いた卵と考えなければならない。
「だいぶ早くなったね」
気だるげな女性の声が聞こえた。
顔をあげると、僕より先に清掃に来ていた中村マリーさんが腰に手を当てて後ろに立っていた。
「……いきなり、背後に立たないでくださいよ」
「声かけたけど磯辺クンが気付かなかっただけ。普通、アタシの方に挨拶しにこない?」
「あー……。それは、すみません」
マリーさんは、二〇代半ばのシングルマザーで、僕の教育係でもあった。
一部屋の清掃は二人でかかる。風呂場とベッドの清掃を分担するためだ。浴槽に水滴一つ残してはならない風呂掃除は、ベッドメイキングよりもいくらか時間がかかる。そのため経験年数が長い方のホテルマンに任せるのが『ピシナム』のルールになっていた。
「ねえ、仕事には慣れた?」
「いえ」
「いえってなに? Yeahってこと?」
「いや、まだ慣れていませんって意味です。まだ働いて、三カ月くらいですから」
「ふーん」
あんまり仕事増やさないでよ? そんな反応だった。ぱさぱさとした茶髪の長い髪を、指ですきながらマリーさんは回収ボックスにもたれかかる。
「大学は楽しい?」
「周りは楽しそうでした」
「磯辺クンが楽しいか訊いてるんだけど」
「一人でいるときは楽しかったです」
「それって大学にいる意味ある?」
「だから、大学にはもう行ってません」
「休学してるの?」
「そうです」
「もったいない」
僕が大学に通っていたことにマリーさんはとても興味をもっていた。妊娠が原因でマリーさんが高校を中退していたことは他のスタッフから聞いていた。だから、大学なんてろくなもんじゃないという表現をした。
大学がというより、人の集まる場所が、僕にはどことなく耐えがたい空気を孕んでいるように感じた。
人の顔を見ると、何故だか切り離されたトカゲの尻尾のように思えて仕方がなかった。あの部分だけ、筋肉の繊維が複雑に絡み合っていて別の生き物のように見えてしまう。
「人の足元ばっか見て話さないでよ」
うつむきながら話す僕を、マリーさんが厳しい口調でたしなめる。
「あ、はい……」
気の抜けた声が出る。
こうなったら、僕はもうダメだった。いま、マリーさんの眉間には深い皺が寄ってるだろう。目の真っ黒なところが僕を睨み付けてるんじゃないか。そう思うと頭が鉛のように重くなって、顔を、上げられなくなる。
ふとRのことが脳裏をかすめた。
顔の見えない彼女は、僕にとって優しい人間なのかもしれなかった。
「ったく……ホテルの仕事はどうなの?」
「……しっくりきています」
「若いうちから、こんな仕事してたら、これから苦労するよ?」
僕がこの仕事に勤めていることを、マリーさんはあまり良く思っていない。
マリーさんの顔をみれば、悪気があって忠告しているわけではないと一目で分かるのかもしれなかった。
けれどその視線をマリーさんの顎より数ミリ上にあげることが、どうしても遠かった。
「うーん……これかな」
マリーさんは黙った僕など放っておいて、回収ボックスを漁っていた。
「ちょっと」
語気を強くして咎めるが、マリーさんが詫びれる様子はない。
「お、あったあった」
マリーさんは先ほどまで敷いていた古いシーツを引っ張り出すと、それを自身の頭にかぶった。
「磯辺クンってセックスしたことある?」
ないと答えた。本当になかったからだ。
「そこはあるって言いなよ。レイプしたくなるから」(下に空行がなかったです)
コロコロと笑いながら、シーツでカラダを包む。最後は蚕のように膝を抱えて座ると、自分のどこかに蓋をしたようにマリーさんは静かになった。
「一緒に入らない?」
シーツにくるまった彼女が紅い唇に笑みを浮かべていた。
「……けっこうです」
「あっそ。残念。あはは」
断っても無理強いされるのではないかという心配は、マリーさんの虚ろな笑い声にかき消された。
「いまアタシ、セックスしてる」
Rの使っていたシーツだと思うと、眉間の皺が深くなった。(下数行の空行が乱れているように見えました)
「……してませんよ」
「してる。してるよ」
マリーさんは笑みを噛む。
「こうしてると、わかるよ。どうしてこの子はここでセックスしてるんだろうって。大切にされたいとか、犯されたいとか、奪いたいとか。ベッドのシーツを見たら、だいたいわかる」
じゃあ、Rは何を考えているんですか、と。言いかけてやめた。
おそらく人から聴いても意味がないし、きっと僕はそれに納得できない。
生きていることを忘れたように丸まったマリーさんを見ていると、201号室が空くのをじっと待っているRと似通ったものを感じた。
Rが僕のなかで存在を大きくしていくのに、時間はかからなかった。
男が出ていって、Rだけが部屋に残る三〇分と少しはただただ彼女のことを考えた。
金魚を眺めているのだろうかとか。今日来た男は少しだけ優しそうだったとか。どうしてあんなにも泣いてしまうんだろうとか。
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