海のシンバル

久々原仁介

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第5話 文字だけの関係

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 台風二十何号かが通り過ぎた。ホテルは冷房も暖房もつけなくてもちょうどいい季節になったけれど、水槽の温度は冬にむけて少し上げておかないといけない。

 この頃になると、オーナーの浜本さんに気づかれないように201号室を模様替えするようになっていた。

 ポッドの珈琲があまり減ってないから、桃の紅茶にしてみたり、持ち手がハート形のティーカップにしてみたり。

 次はスリッパをピンクに変えてみようかと考えていた日だった。Rは十九時ごろに『ピシナム』へと訪れた。最近は声色とかガラス越しの雰囲気なんかでRの調子がある程度わかる。

 玄関ドアから受付カウンターまで十歩以内で来たら機嫌が良い。だから今日は調子が良い日だった。

 Rの後ろから入ってきたのは、二十歳前後の僕と同い年くらいの青年だった。肩が華奢な男で、居心地悪そうにキョロキョロしている。

「金魚の部屋でお願いします」

 もちろん、空いております。と、心のなかで呟く。
 それから一時間後、いつものように男が先にチェックアウトして、Rだけが残っている時間だった。

 受付台で避妊具をラッピングしていると、壁に備え付けられた気送管ポストから「シュルシュルシュルー」という音が響いて、思わず肩が跳ねた。

 気送管ポストとは、空気の圧力を利用して中にあるカプセルを建物のなかで行き来させる仕組みのことだ。発祥はスコットランドらしい。『ピシナム』では、壁に箱を埋め込んでいるような形になっていて、中に入っているカプセルにお金を入れて支払いを済ます。経済成長期前後にできたブティック系ホテルは、この気送管ポストによる支払い形式が多いのだとマリーさんが教えてくれた。

 問題なのはその青いカプセルが201号室のもので、なかに入っているものが、どうもお金ではなさそうということだった(カプセルは部屋ごとに色分けされていた)。

 カプセルが落ちてくる音が普段と違った。小銭同士がぶつかる音がしないし、お札にしてはほんの少しだけ軽い音だった。

 気送管ポストの取り出し口は、座っている僕に対して左側面の壁に取り付けられている。手を伸ばせば届く距離だ。

 蓋を開き、年季の入ったカプセルをいつもより慎重に取り出す。

 なかには花があしらわれた薄い桃色の便箋が、裸で入っていた。

 便箋を開くと、大人びた文字がいくらか並んでいた。

『はじめまして。
 はじめましてじゃないかもしれませんね。でも受付さんとこうしてあいさつをするのははじめてだから、はじめましてでいいのかも。いつも、金魚の部屋を借りている者です』

 Rからの手紙だとすぐにわかった。そうであってほしいという気持ちが強かった。

 すぐに返事をすべきだと思って持っていたメモ帳を千切ってペンを走らせたが、なかなかうまい返事が思いつかなかった。

 顔が見えないということが、僕にいくらかの安心と興奮を与えていたのかもしれない。

『こちらフロントスタッフです。
 はじめましてでいいと思います。なにしろあなたのことを、何も存じあげないわけですから。
 いつも当ホテルをご利用いただきありがとうございます。
 本日は、どういったご用件でしょうか』

 少し堅くなりすぎただろうか。

 けれどしょうがないとも思う。僕は文通の経験がこれといってない。年賀状すらずいぶん書いていなかった。もしもRと話せたら。そんな妄想に耽ったこともあるけれど、いざそうなるとなかなか気の利いた言葉は出てこない。

 あまり待たせるのもいけないと思い、しょうがないからそのままカプセルの中に紙きれを入れて、戸を閉める。横にある赤い送信ボタンを押すと、「シュルシュルー。シュルシュルー」と、音をたててカプセルが管を這い上がっていった。

 カプセルが目に見えなくなると、何度も何度も自分の書いた文章を思い出して、頭のなかで精査した。

 後ろにあるかけ時計の秒針が三周したときに、201号室の青いカプセルが気送管ポストのなかに落ちてきた。

『いつもの受付さんですか?』

 さっきの便箋を四分の一ほどに千切った紙に、たったそれだけが書かれている。

 小さな雨粒が紙に落ちたら、この子の字になりそうだった。

 色々思いつきはしたけれど、頭の中に居座る検閲官にはじかれるおかげで、なかなか返事がペン先から出てこない。

『おそらくは』

 なんだか素っ気ないなと思いつつ、カプセルのなかに入れて、ボタンを押した。

 送った後になって彼女が僕のことを『受付さん』と書いていたことに気が付く。彼女のことをRと呼んでいるように、彼女も僕のことを受付さんと呼んでいるのだろう。それがほんのりと胸を温かくした。

 けれどメッセージはしばらく返ってこなかった。途端に不安が身体中を締め上げる。この短い時間で、僕の心はかつてないほど揺れ動いていた。

 僕はどんな言葉が相手にどういう影響を与えるかを、まったく知らなかった。どの言葉が相手を喜ばせるとか、傷つけるとか、そういうものに無頓着だった。だから便箋が来るまでは、ひたすらその葛藤に苛まれた。

 初めての感覚に手先がピリピリする。
 シュルシュルー。シュルシュルー。

『気づいてますか?』

 紙面には何度も、消しゴムで消した跡が見て取れた。
 気づいているか? そう訊かれて、なにを? と書こうとして止めた。
 それを書いたら、Rは何も返してくれない気がした。

『気付いています』

 Rについて知っていることは多くなかった。いつも201号室の金魚部屋を利用すること。いつも別の男を連れ込んでいること。

 そして、彼女が女子高生であるということだった。

『受付さんは、わたしを追い出したりしないんですか』
『いたしません』
『どうして?』

 理由を訊かれると、筆はしばらく止まった。訳がないわけではなく、自分のことを語るということが下手だった。どうしても気取ったような言い回しになってしまう。

 たっぷりと十五分ほどかけて自分の書いた文書と格闘する(思わず『僕』と書きそうになって『私』と書き直した)。

『私は、人の顔を見るのが苦手です。人と向かい合って話すことが、不得手なのです。人の口元を見ながら、相槌を打って、自分の意見を言うということが、私には非常に難しいことのように感じられます。ですから、お客様に直接申し上げることができないだけなんです』

 Rのことを気にかけること以上に、彼女と面と向かって話すことが想像できていない自分がいた。
 僕は、自分が思っているよりずっと臆病だった。

『そうなんですね。それはそれでいいんじゃないかと、わたしは思います』

 しかしRは、臆病な僕のことを好意的に受け取ってくれた。

『それは、いいことなのでしょうか』

 もはや誰かに肯定されることすら不安なところがあった。

『わたし、見えないってどこまでも平等なんだと思います。背が高くても、低くても。女の人でも、男の人でも。差別をしないでいいじゃないですか。一番近しい人みたいにもできるし、一番遠くの人にもなれるから。だから、悪いことじゃないと思います』

 不思議とRの文面は、信じてみたくなるような力があった。Rは便箋の下に『受付さんは敬語じゃなくていいですよ。わたしの方が、年下ですから』と書いていた。

 『かしこまりました。善処いたします』と書いて送ると『敬語じゃないですか』と返ってきた。いきなり話し方を変えるのは難しそうだ。
 これで終わりかと思ったら、便箋の一番下の行に『裏に続きます』と書いてあった。
 言われるがまま(書かれるがまま)、ひっくり返す。

『紅茶、とっても美味しかったです。
 ティーカップもずっと口につけていたいくらい可愛かった。ありがとうございます(これが言いたかった!)。
 また次の水曜日に、来ますね』

 紅茶。201号室のポッドのなかは他の部屋と異なり、コーヒーではなく桃の香りがする紅茶が入っている。Rのために、僕が淹れた紅茶だった。

 甘いお菓子を食べたときみたいに頬が緩んだ。一度読んだ手紙で、内容は分かっているのに、それを何度も読み返した。

 手紙を一旦閉じたあとに、カプセルの奥に沈んでいる三〇〇〇円を発見した。もうチェックアウトの時間だ。お釣りを入れたカプセルを返すときに『誠にありがとうございました。またのお越しをお待ちしております』と入れておいた。

 こんなやり取りの後だと、鍵の受け渡しだけでも顔が強張る。けれどエレベーターから降りてきたRは、普段と変わらず鍵をポイっとキャッシュケースに落とした。

 硬い音がして、それはどんな言葉より雄弁だった。Rにつられて、自分も淡々と鍵を受け取る。

 彼女が踵を返して、力いっぱい扉を押し開く。ひだスカートの端が扉の向こう側に隠れてしまうまで、彼女から目を離さなかった。

 時計の針は九時を回ろうとしていた。受付を交代する時間だった。ズボンのポケットに、Rからの便箋をくしゃくしゃに突っ込む。

 今日の彼女は泣かずに帰路に着いた。たったそれだけでも、不思議と満ち足りていた。
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