海のシンバル

久々原仁介

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第6話 三月のペトリコール

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 それからRは僕のバイトに合わせて毎週水曜日に訪れるようになった。Rは僕が受付シフトになっている午後七時に男を連れ込む。その男がそそくさと帰ったあとの残り時間を、彼女は僕との文通で埋めていた。

『受付さんって何歳なの?』
『十九歳です』
『意外と若い! わたしは明日、十八歳になるんです』
『おめでとうございます』
『それだけ?』
『大変嬉しく思います』
『そういうんじゃなくて(笑)。プレゼントとかないんですか?』
『先ほど知ったばかりですから』
『うーん。じゃあ、紅茶がいいです。フルーツ系の、甘い紅茶が飲みたい』
『では、また来週の水曜日に合わせて淹れておきましょう』
『やった』
『そろそろチェックアウトのお時間です』
『そっか。来週、また来ますね』
『またのご利用お待ちしております』

 しかし部屋を出ると、僕らは他人になった。Rも僕も、201号室で起きた一切を外へ持ち出そうとはしなかった。

『休日は何をしてるんですか?』
『本を読みます。あとは、映画も観ます』

 そう書きながら、素直に納得できないことがいくらかあった。本や映画を、僕は純粋に楽しんではいないような気がしたからだ。本を読むなかで、僕は登場人物になりきり、自分だったらこうする、ああすると、抗うようにストーリーを考えていた。本を読み終わったとき、心のなかに残っているのはまったく別の物語だった。

 並べられた文字は、耳で聞くよりも深く僕のカラダに行き渡っていく。

『受付さんは、何色が好きですか?』
『色を好き嫌いで見たことはありませんが、青色はしっくりきます』

 これといって思いつかなかったから、ホテルの外にある海岸を想像した。

『そうなんですね。わたしはその色、あんまり好きじゃないんです』
『何故ですか』

 その返事は、なぜか返ってこなかった。こういうときがたまにあった。Rは踏み込んで欲しくないラインというのをきちんと持った子で、そのラインを越えたとき、手紙は返ってこずにお金だけが送られてきた。

『セックスって、どうして進化しないんだろって、いつも思います』

 Rとのやり取りは最初、会話というより問答に近かった。彼女からの質問に、僕が答える。

『どういうことでしょうか』

 僕からも、たまに訊くことはあったけど、それは意味がわからなかったり、もっと噛み砕いてほしいときだった。

『人間は、空も飛べるようになって、離れた人とも話せるようになりましたよね。でもセックスは、ずっと原始時代のまま。男の人が、覆いかぶさって、わたしたちは苔みたいにくっつかないといけないんですから』

 Rの思想に触れる度に、頭の中にびりびりとした電極が開通していく。
 彼女の言葉を考えるのと同じくらい、僕自身のことについても考えた。文通を交わすと、ふわふわとしていた不確かな僕が次第に形を帯びていった。

『ねえ、どうして紅茶にしたんですか? 前までコーヒーだったのに』

 Rからの質問は多かったが、僕はその一つ一つに意味をもって答える努力をしていた。

 他の部屋も紅茶にしたと書けば納得してくれるだろうかと思った。でもすぐにやめた。ここで嘘を書いてもしょうがないことだった。

 僕は彼女のことを考えて紅茶を淹れたが、じつはそうではなかったのではないかと自分を疑っていた。僕が誰かのことを思いやる姿を、自身が想像できなかったからだ。
 きっと寒いだろうと思ったのだ。ひとりのベッドは。

『小さい頃、親が共働きで、小学校から早く帰ってもずっと家に一人だった』

 石橋を叩いて渡るよりもずっと、気を遣って、一言、一言を選んで綴った。ホテルマンとしての言葉遣いを忘れてしまうくらいに。

『冬の日に、家のストーブが壊れたときがあった。頑張って灯油も入れたのに、それでも火が点かなかった。出した毛布にくるまって、ひたすら足先が冷えていくのに耐えた』

 そういう経験があって、きっと彼女もそうではないかと思った。だから僕は、他の誰でもない自分のことを考えて、あの紅茶をそそいでいた。

『たった少しの時間でも、何もしないと冷えるから』(直後に空行がなかったです)
 そう付け加えて送ると『それだけですか?』と返ってきた。『それだけです』と答えた。その日はこれで終わった。

 話題は一週間をまたぐたびに変わった。前の話の続きをすることはほとんどなく、そのぶん僕らの会話はテーブルの上にこぼした水のように広がっていった。

『このカプセルを送るときの音、けっこう好きです。シンバルの音みたいだから、好き。シュルシュルー。シュルシュルー』

 どちらかというと、何かの鳴き声みたいに見えた。文字にすると、虫の音のようにすら見えてくる。

『シュルシュルー。シュルシュル―。そうかな。シンバルって、もっと大きな音が出る楽器かと思ってた。ばあーん、ばあーんって』

 Rとのやり取りも五週目以降になると、彼女につられてくだけた物言いになっていった。少しだけ敬語が混じってしまうときもあったけれど、Rは目をつむってくれていた。

『わたし打楽器の担当だったんですよ。シンバルって、音が止まったと思っても、ずっと尾を引いているんです。耳を澄ますとシュルシュルーって聴こえる。
それが鳴ったときは、うまく引き合わせられたのかなってすごく安心するんです』

 そんなに広すぎない教室の後ろの方で、シンバルを叩く女子高生の姿が思い浮かんだ。そこにはピアノがあって、ギターが窓際に立てかけてあって、トランペットが机の上においてあって、クラリネットが並んでいて、大きなドラムが置いてある。ちょっと古い教室。

 まったくすべての窓を閉め切った部屋にRがポツンと立っている。
 鮮明過ぎて、どうしてか痛かった。

『とってもシンバルが上手い先輩がいたんです』

 Rは楽しそうに、そして少しだけ寂しさを抱えた書き出しを送ってきた。

『シンバルに上手い下手があることを、知らなかったよ』
『ありますよ。でもちょっとのちがいだから、誰が叩いたかなんて、みんなわからないんです』
『その先輩は、どうだったの』
『……先輩の叩くシンバルは、天井から音が降ってくるんです。先輩が叩いていたのは、きっとシンバルなんかじゃなくて、自分の神経とか魂とか、そういうものを限りなく薄く、円盤に広げたものだったんじゃないかって。そう思ってました』

 今までRが連れてきたどんな男よりも、彼女が話す先輩は実体をもっているようだった。

『君は吹奏楽をしていたの』
『そうですね。今は、ちがうけど』

 短くて、切ない文面だった。
 僕は、その光景がもう戻ってこないものであることを理解せずにはいられなかった。

『今はって、どういうこと』
『転校してきてからは、もうやめました。シンバルも、吹奏楽も』
『転校って、どこから』
『二年前に、岩手の、釜石って、ところです。雪のつもった、いわて銀河鉄道の線路を、黒いエスエル汽車が龍みたいに走り抜けるのを毎年、友達のちーちゃんって子と、見に行ってた。それがすごく、好き、だった』

 なぜかRの文章は、すべて過去形だった。そして文字は、途切れ途切れになっていった。
 自分には、彼女のことを知る権利がある。
 不意にそんな根拠のない傲慢が、胸のなかに生まれた。

『どうして転校してきたの』

 軽くて思慮の浅い言葉が筆先から飛び出した。

『転校なんて、したくなかった』

 頭の中には青と黄と赤の丸いランプが三つ並んでいて、赤色が強く光っていた。

 それをあえて無視する。『なら、どうして、こっちへ来たの』と気づいたら訊き返していた。

 シュルシュルー。

 Rの言葉が降りてくる。その便箋を開く手先には迷いはないはずだった。

『ぜんぶ、流されたの。海に、ぜんぶ』

 細い息が、喉から漏れた。

 頭のてっぺんからつま先まで、真っ白になる。それは次第に胸を刺す痛みへと変わり、喉から出かかった言葉を奪った。

 その日のうちに、僕らはそれ以上の言葉を尽くすことはなかった。

 後悔は津波のように押し寄せ、僕を飲み込んでいた。
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