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第2帖 東京 昭和12年 天秤の盗難さわぎ
しおりを挟む支那事変で柳川兵団の杭州湾敵前上陸の話がある。
昭和12年11月、世界史上でも珍しい、敵軍の布陣する真ん前に我が軍が上陸し、たちまち橋頭堡を確保した作戦であった。このとき正面を任されたのが第1師団に属する兵隊たちであった。
第1師団は二・二六事件直後、北満(北部満洲)に移駐し、杭州湾上陸を為したあと、留守師団に編入された。留守師団とは動員を担当する師団で、戦備を持たず、事務を担当する名ばかり師団である。
そんな第1師団から召集を受けた兵隊たちの中の、ひとりの不届き者の話がある。
支那事変が始まって次々に戦時部隊の動員が下令されていた。動員に次ぐ動員で、兵舎は一杯。応召兵を収容しきれないので、平素から兵隊たちの宿泊が地元の旅館のみならず民家にも計画準備されていた。
支那事変勃発後はよくある話で、地元民もこれに心良く協力してくれた。
動員の連続で、青山、赤坂、麻布界隈の民家は、第1師団の応召兵たちで埋まっていた。兵隊たちにとって動員されてから戦地に出発するまでの待命期間、ここが仮の兵営だったわけである。
そんな麻布のお屋敷町に、とある子爵家のお宅があった。兵の宿泊割り当てに貧富の差はなく、この子爵邸にも25人の応召兵たちを宿泊せしめていた。
編成が終わり、兵隊たちが品川駅を出発するまでの10日前後、ここにお世話になる。
この部隊が品川を出発した数日後の10月初め頃、突然、渋川憲兵少佐は、その子爵の来訪を受けた。もちろん初対面である。子爵はそのころ三笠宮家の別当をつとめていた。
好々爺といった感じの老人で、こざっぱりした見た目だが品が漂う。世が世なら徳川幕府の重鎮であったろう身分だ。
「突然何ってまことに恐縮ですが、分隊長様に、いささかお願いがあって参上しました」
「どうぞどうぞ」
渋川は赤坂憲兵分隊の分隊長を務めている。憲兵が軍の警察だとは一般市民でも知っている。
すなわち老人の頼みとは、軍関係の事件であろうとは渋川でなくとも予想が付いた。
老人は切り出した。
「実は拙宅の家宝として大切にしておりました天秤のことでございます」
小柄で品のよい子爵であったが、渋川の目には、憂色ただよい困惑の状がありありと窺えた。
老人は言葉を続ける。
「往時は大勢の兵隊さんをお預かりしましたので、粗相のないようにと気を遣って参りました。専属の女中を3名ばかり雇ってお世話させることにしていました。そこでわたしは兵隊さんに喜んでいただこうと思い、我が家に家宝として大事に蔵の中にしまっていました天秤なるものをお見せしました」
「天秤ですか。両替商がよく使う」
「まさしくその天秤です。3尺ばかりの天秤棒なのですが、この棒の全表面には金銀の昔ながらの通貨を100以上もはめ込んであります。大判小判から何分金といった小さい方形のものまで。だからこの天秤棒はずっしり重いものでした。兵隊さんたちはたいへん珍しがって喜んでくれました。ほかの者にも見せてやりたいといわれるので、ではしばらく床の間にでも飾っておきましょうと、しまい込まないで床の間に置くことにしました。ところが数日前兵隊さんは、いよいよ出陣式を終えて征途に着かれました。部屋も空きましたので、あと片付けをしたのですが、このときその家宝の天秤がなくなっていることに気付いたのです。女中に調べてみましたが、それがいつから見えなくなったものか、それさえ皆目見当がつかないのです。そこで憲兵隊にご協力をお願いしたいと思いまして、参上した次第です」
渋川には事情が飲み込めた。つまりは出征して行った兵隊たちの中に不届き者がいたらしい。子爵はそう言いたいのである。
物腰は極めて柔らかで、あくまでも懇願という形である。子爵も説明を続けて、まさか出征される兵隊さんに要るものではないし、また、こんな片田舎に泥棒が入ったものとも思えませんと言った。
恐らく兵隊が犯人なのだろうが、決めつけることもせず、困った様子を見せる。渋川だけでなく万人が協力しようと思わせる雰囲気をまとっていた。
それで渋川はうなずいた。
「そうですね。だいたい分かりました。恐縮ですが、お話を聞く限り、大勢宿泊していた兵隊の中に出来心を起こした者がいるようですね」
「いいえ、それは結論としてはいささか早いものと思われます。事件発生からたいへん遅れましたが、本日やっと腰を上げてお願いに伺いました次第です」
概略をメモした後で子爵にはいったん帰ってもらい、隊内で一度話し合うこととした。
部下の乙倉憲兵上等兵を呼び寄せ、事の次第を伝える。
「なるほど。犯人はおそらくそこに宿泊した兵隊か、あるいは臨時に雇い入れた女中さんでしょうか」
「兵隊が一番怪しいな。女中がそんなことをしても天秤を売るときに足が付くし、何より事件が発生してから辞めた女中はいない」
「なるほど。兵隊ならば、すぐに支那に渡りますから、処分の機会などいくらでもありますね。その天秤というのはどういうものなんです」
「ええと、こういう説明を受けたな」
メモ用紙には次のように記されていた。
徳川の末期、京都にある富豪がいて、その若い日、天秤棒一本を担いで粒々辛苦の末、一代で財を成した。その汗の結晶をこの一本の天科棒に託して、これに金銀貨を掘り込み、ちりばめて家宝とした。
それを子爵の先代が譲り受け、また家宝としたもので、その金銀貨は潰ても時価1万円の価値がある。
「1万円!」
乙倉は覚えず声を上げた。1000円あれば家が建つ。銀行に1万円預ければ利息でどうにか食って行ける。そんな時代の1万円は恐るべき大金だ。
「可能性からして誰でも兵隊に疑惑をかけるな。ともかくも現場へ行って捜査だ。家の中はそのままにしておくよう言付けておいたから、今日明日にでも伺おうと思う」
「警察には届けたのですか」
「軍のことだと思い、鳥居坂警察の方には、まだ何も言っておらんそうだ」
こうしてこの捜査は始められた。捜査主任は小島憲兵曹長であり、乙倉がその部下として、彼らはさっそく子爵邸に乗り込んだ。
実況を見分するかたわら、念のため、鳥居坂警察署を通じて警視庁全管下の警察にも外部的な協力を頼んだ。これでもし都内の古物商に持ち込まれても通報がある。
◆
捜査は難航だった。 小島はまず部隊について、子爵邸宿泊者25名の身元を洗おうとしたが、東京の留守師団出張所にはこれといった資料は残っていなかった。
留守師団は動員を担任するが、部隊が編成を終われば、そうしたものは、すべて新編成部隊に移してしまうからだ。こうして何も得られず2日がたった。
そのうち耳寄りな情報が偶然出て来た。ここに宿泊していた25人のうちの1人が、病気のため残留していることがわかったのである。この1人の兵をたよりに、それから宿泊者24人の動静をたどってゆくわけだが、僅か十数日の共同生活では、いちいち名前をおぼえているわけでもなく、これもまた思うように渉りそうにない。
小島憲兵曹長も乙倉も、部隊に行ったり子爵邸に行ったり、 ほとんど憲兵隊にも帰らずに、昼夜不断の努力をつづけていた。
捜査4日目になって子爵邸の女中から、興味深い言動を知った。
乙倉が何気なく兵隊の話を聞き出していたとき、この15歳の女中は、雨の中を散歩していたという。ここまではよくある話だったが、乙倉が興味を持ったのはその次の話だ。
「それで、その兵隊だけがその日に散歩しに行ったのか」
「はい。雨の日でしたし、母から頼りのあった日ですから間違いありません。散歩に出たいから傘を貸してもらいたいとおっしゃったんです」
「傘を?」
乙倉もその女中同様、違和感を覚えた。
兵隊は傘をささない。
洋の東西を問わず、軍隊ではどれほどの大雨でも傘をささない。敵に遭遇したら反撃できないからだとか、視界が狭まるだとか、過去に味方を突き殺したからだとか、色々な説があるが、とにかく、兵隊は雨でも傘をささないものだ。
「それでその兵隊さんですが、何だかお腹を曲げて歩いておりました。腹痛かと心配しましたが、何も答えずにお出かけになりました」
「変な話だ。もしかしてそのお腹に何かを隠していたのか」
「傘のせいでよく見えませんでしたが、今言われるとそういえば何か隠していたような……。なんだか玄関ではソワソワして急いでおりましたが、いえ、分かりません」
「いや、充分だ。ありがとう。時刻は分かるか」
「12時過ぎです。すぐお食事の準備にはいりましたのでこの時刻は間違いありません」
かなり決定的と言っても良い証言だった。小躍りした乙倉は、さっそく小島に連絡し、2人してその兵隊の様相を根掘り葉掘り聞いた。
ここにしてようやく1人の容疑者らしいものが浮かんできた。
この1人の兵隊、それは大川という29歳の未教育補充兵で、東京は板橋の方に原籍があり、両親も健在でそこに住んでいる。だんだん探ってゆくと、大川はほとんど自宅に寄りつかないで、ある年上の女と同棲していたことが判明する。
応召したのもその女の家から出て行ったという。中学は出ているが、そのころ柔道にこりその腕前は2段くらい。また麻布3連隊の動員部隊では陸上輸卒隊で、駅馬の取り扱いの教育をうけたが、そのとき彼は馬に蹴られて休んでいた。
いわゆる「練兵休」となったのだ。その日が女中の証言による雨の降った日と合致した。この日は軍装検査の日で、全員出場したが、彼だけは練兵休のために宿舎で静養していた。
「これは怪しい」
乙倉はうなずいた。
◆
一度疑いがかかると、ますますその大川が怪しくなってくる。だが、まだ本人だというキメ手は何もない。盗んだという証拠は何1つないのだ。
本人がいればこんなところで取り調べを始めてもよいわけだが、彼は今頃は支那への輸送船の上だろうから、呼び出しも不可能だ。はっきりとした理由があれば可能だが、ただ取り調べをしたいがために引き返させることは許されない。
小島憲兵曹長はすでにこの大川の女をつきとめることに苦心していた。大川の実家ではその女のことも知っているらしいが、口が固かった。
「で、どうやったんだ」
「その大川の入隊前の友人関係をたどってみました。そうしますと、やはり柔道家くずれの友人2、3名に当りまして、その1人から大川の女は千駄ケ谷付近に住む女琵琶師だということがわかったのです」
「千駄ヶ谷? 子爵邸から僅かな距離だ」
渋川は眉をぴくりと動かした。
「はい。あの宝物を持ち出して処分して帰ってくることを想定しますと、だいたい1時間はかかりましょう。十中八、九まで間違いないと判断します。その女琵琶師を一応憲兵隊に呼び出して取り調べることの認可を求めます」
「いいだろう。やってみるんだ」
◆
女琶琶師は黒柳という女で、かつては女中を幾人も置いたことがあるほど羽振りが良かった。今は夫を失くし、女世帯である。だが乙倉たちが訪れた頃は、そんな様子もなく、かといって弟子をとっているとも見えなかった。わずかにひとりの女中を置いているに過ぎず、よくある軍人未亡人の宅に見えた。
「妙ですね。どうやって生計を立てているのでしょうか」
「大川が養っていたのか。あるいは別口で収入があるのか。とにかく分隊長殿は任意留置のみを許可されたのだ。無理にひっぱることはしない」
翌朝早くに千駄ヶ谷の黒柳宅を訪ねる途中でそんな会話を交えた。市電と徒歩を繰り返して到り付くと、乙倉は扉をノックした。
「どなたでしょう」
出て来たのはこざっぱりとした女だった。実年齢は40歳を越えた程だという。年相応のごく普通の女である。
ただ器量の良さそうな顔立ちであり、そのあたりが年下である大川のほれた理由であろうと小島はふと思った。
「憲兵分隊より参りました。自分は小島です。こちらは乙倉と申します」
「はい。あいにく主人は留守ですが」
「いえ、ご主人ではありません。あなたに用がありまして」
「わたくしに……」
「実はですね」
小島は懇切丁寧に事の次第を語った。そして彼女に同行を求めた。女はびっくりしたり神妙な顔を作ったりしながら小島の話を聞き、最後に一言言った。
「分かりました。準備しますのでお待ち下さい」
また、小島は彼女の同意を得て家宅捜索をした。しかし目指す宝物はどこを探しても出てこなかった。黒柳家は2階建てである。下3間、上2間の、こじんまりした普通の住宅だが、やはり、女1人の世帯としては、この家でとうした生計をたてているのか、いささか考えさせられるものがあった。あるいは仏間で真面目な顔写真を残した、亡夫の遺産でもあったものか。
◆
憲兵隊での彼女は頑強だった。彼女はすでに齢40を越していたが、その衰えをおくびにも出さない。
「確かにわたくしは大川と同棲しております。大川より10歳以上も年をくっておりますが、不貞の関係ではありません」
「大川に応召が来たのは知っているか」
「もちろんです。徴兵保険の手続きはわたくしがやりましたから」
この頃、徴兵保険というものが流行していた。
徴兵の紙が来ると準備がいる。下着を新調したり、眼鏡を作り直したり、歯医者に行ったり。あるいは官給されない品々を揃えなければならない。
突然の入り用に備えておくのが徴兵保険だった。その手続きはたいてい身内がやるものだ。
「応召中に大川が自宅に来たか?」
「2度ほどありましたわ」
渋川には、彼女が何かを隠しているように思えた。だがそれが何であるのか見当も付かない。まさしく五里霧中であると思った。何かある。だが何であるのか不明。
渋川は司法事件を指揮するのに、いつも調書を見ることにしていた。この場合も小島の作った調書を提出せしめて読んでいる。最初の1枚を広げた渋川は、やがて目を見張った。
女の本籍は福井県敦賀市とある。敦賀は渋川の馴染みの地である。そのうえ、「わたくしは黒柳姓を名乗っていますが、実は、この富貴町にある大黒屋旅館の主人浅田源次郎を父とするものであります」と書いてある。
渋川は驚くと共に疑った。
――おかしい。源さんに子供はないはずだ。
渋川は浅田源次郎という名前を見知っていた。顔も分かるし家族関係もほぼ知っている。
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