憲兵野史

みゆみゆ

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第5帖 静岡 昭和17年 恐怖の連続殺人事件

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 静岡県は三島地方で、昭和14年8月に1件、同16年8月に3件、同17年8月に1件と、いずれも夏の夜に計5件の殺人及び傷害事件が発生した。被害者はすでに死亡者9名、重傷者5名を数えた。

 犯罪の手口は一定であった。いずれも深夜、音もなく住宅に侵入し、風のように迫って、就寝中の家人の胸を鋭利な短刀で突き刺すという、残虐な殺人犯であった。

 第4回目までは、現場に遺留品などの証拠物件を全く残さず、姿なき殺人魔として捜査当局を苦しめ、地元民を恐怖のどん底に陥れた。

 静岡県警は事件発生以来、総力を挙げて懸命の捜査を続けたが、どうしても犯人を検挙することができなかった。

 このため地元住民の不安は募り、県警当局への不信となって、地元住民及び官公庁並びに軍需工場等より、銃後の不安を除くため、憲兵の捜査出動の嘆願が多数に上り、憲兵としてもついに世論を無視することは出来なくなった。

 昭和12年の支那事変勃発から、銃後の生活は重大視されていた。兵隊が銃を持つのは、その後ろにいる家族を守るためである。これが銃後と呼ばれ、ヨーロッパでは第一次世界大戦の頃にはすでにあった単語である。

 三島憲兵分隊は捜査出動の可否を検討中であった。頼ってくれるのは嬉しいが簡単に人手を割くわけにはゆかない。憲兵とて人手不足の中、どうにかやっているのだ。

 支那事変勃発から軍事費は年々増額の一途にあった。工場はフル回転し、軍需物資はどんどん製造されていた。東海道本線を蒸気機関車が轟音を立てて西進し、大陸に物資と兵隊とを運び続けた。

 物の増産は比較的容易である。しかし憲兵は違う。きちんとした機関で教育を受け、合格点に達した者を卒業し、配属させる。人材は一朝一夕に増やせない。

 まして事変勃発後、支那に派遣される兵隊が増え、それに呼応して派遣される憲兵も増えている。だからいかに市民の要望といえど即答できぬ状態であった。

 そこに第5回目の事件が起きた。

 名古屋憲兵隊本部の隷下である三島憲兵分隊ではちょっとした騒ぎになった。

 憲兵隊本部は数県に1つ置かれる。その隷下に憲兵分隊を置く。従って三島憲兵分隊は静岡県にあるが、その上部機関は名古屋にある名古屋憲兵隊本部だった。

 三島憲兵分隊長である渋川憲兵少佐は真っ青になった。この5回目の事件が今までとは毛色が違ったからである。

 この事件では出征軍人の留守宅が襲われ、一家4名が皆殺しにされた。まさしく銃後の平和のみならず軍の紀風に係わる事件であった。

 これを放置すれば国民からそっぽを向かれる。出征する軍人にしても家族の心配を戦地でも引きずる。ひいては反軍感情につながり、軍威は失墜する。

 こうした軍人家族保護の立場から、三島憲兵分隊は捜査出動に切り出したのである。期せずして憲兵は連続殺人犯に挑むこととなった。

 憲兵分隊では、大出憲兵曹長を班長として、乙倉憲兵伍長と計2名を軸として捜査を始めることとした。少なく思えるが捜査とは少人数で行うもので、2人というのは定石である。捜査開始は昭和17年8月31日であった。

「支那だけじゃなくアメリカとも戦争をやっているってのに、殺人犯は日本人じゃないかも知れませんね」

 乙倉憲兵伍長は口を尖らせた。すでに去年、昭和16年(1941年)12月7日、大日本帝国はアメリカと戦端を開いていた。

「どういう意味だ」

 渋川は尋ねた。連続殺人犯はこれまで警察ですら捕まえられなかった。そこへ憲兵にお鉢が回って来た。市民の安全を気遣う渋川としては解決への意気込みが違う。

 そこへ乙倉が冗句を言った。渋川はそれをジョークと思わず、真剣に受け止めてしまったのだった。

「ええと」

 乙倉は困った。いまさらあれは冗談だとは言えない。

「つまりですね。国民が一致してこの国難に当らねばならないのに、我々の手をわずらわせる犯人は実にケシカランというわけです」

「そういう意味か」

「もちろんです」

「てっきり軽口かと思ったぞ」

 その通りです、とは言わない。

 憲兵は捜査着手と同時に、検事に報告して指揮を受けることになっている。大日本帝国は法治国家である。いくら憲兵でも捜査のためなら何でもして良いわけではない。

 戦地ならともかくここは内地だ。まず当局たる静岡検察から、要請という名の命令を受ける。乙倉たち憲兵はそれに従って行動する。

 そしてその行動と経過、結果は検察を介して静岡県警にも知らされる。

「しっかし静岡県警もケチですねえ。今さら何も出て来ないぞ、とでも言いたいのでしょうか」

「ああ、あの件か」

 本件に当る前、静岡県警本部に連絡して、これまでの捜査状況を聴取しようとしたが、県警側の好意ある協力を得られなかった。つまり本件に関しては、乙倉たち憲兵はまったくのゼロから捜査を開始せねばならない。

 もっとも警察を責める気にはなれない。元来憲兵と警察とは、情報を自分の足で稼ぐ点で似ている。苦労して得た情報を右から左へ流せるかと言われたら、人間誰しも難しい。

「やむをえん。我々憲兵は我々で独自の捜査を開始するよりないな」

「分かりました。では早速私服で行って参ります」

 時代は変われど聞き込みから捜査を開始するのは戦前も今も同じだ。そのとき憲兵腕章を巻いて堂々としていては市民や、潜伏しているかもしれない犯人にかえって警戒心を与える。見回りならばそれでいいが、聞き込みは地味に行わねばならない。



 第5回目の事件現場を中心に聞込みを行ったところ、生存者の証言より犯人は20歳前後で学生服を着用していたことが判明する。これまでと違い、今回は現場に生存者がいたのである。

「この野郎!」

 乙倉は激怒した。

 犯人に、ではない。警察に対してである。

「何事だ、乙倉。遺留品が見付かったのに何で怒る」

「どうしたもこうしたもありませんよ。確かに遺留品はありました。犯人が使用したと思われる綿布です。しかしこれは警察がすでに持ち帰ったそうじゃありませんか。我々はこれを初めて知った。遺留品がなきゃ迷宮入りも確実なのに、どうして警察は我々に何も教えてくれないのですか」

「乙倉!」

 渋川が大声を張り上げる。顔は怒気に満ちている。

 すぐに表情を柔らかくすると、渋川はたしなめるように言った。

「理不尽なのは分かるが、我々の為すべきはなんだ。犯人を検挙することではないのか。憲兵も警察も足で情報を得る。言わば似たもの同士だ。では向こうが情報を安易に渡したくないことくらい分かるだろう」

「はあ、それでも」

「そこに食って掛かって得るものは何だ。警察に対する優越感か。それで誰が得をする。我々がいさかいを起こしても喜ぶのは犯人だけではないか」

「そうか、そうですね。申し訳ありません。自分が間違っておりました。さっそく市内の綿布問屋を調査して参ります」

 この結果、遺留品と同一綿布を扱っている店を発見した。これも警察より現物の照合があった店で、つまりはここでようやく警察と憲兵が同じ土俵に立てたことを意味する。

 乙倉は漏れ出る不平を我慢して、渋川に報告した。

「というわけでありまして、遺留品はこの問屋から卸されたものでありました」

「それで」

「この問屋には、佐藤文作の一男が勤めていた店でもありました」

「ん? 誰だ」

「佐藤文作には子供が4名おります。その4男に誠一という息子がありまして、その関係です」

「おお、思い出した。その誠一にお前が会いに行ったんだったな。そうしたら怪しかった。そうか、その父親か」

「はい。会ってみますと誠一の行動に不審な点があったので、同人を中心に捜査を進めました。そうしますと、次のような疑問が浮かび上がってきました」

 乙倉はガリ版に書いたまとめを見せる。

 一、事件現場に残した靴跡が、誠一のズック靴と同一サイズである ことがわかった。
 
 二、しかも遺留品と同一の綿布を扱った問屋に誠一の兄が勤めていた。 

 三、第2回目の事件から、第5回目の事件の翌日、誠一は必ず学校を欠席している。 

 四、いずれの犯行時も犯人は声を出さない。 

 五、誠一は変質者であり、市内の盲学校に通う。

 六、第5回目の事件のとき(一家4名皆殺し)、被害者が死の直前に言い残した犯人像は、20歳前後で小柄な学生風の男であった。

 なおここで言う変質者とは不具者くらいの意味だ。この時代、不具者は肩身の狭い思いを強いられ、また世間も理解が少なかった。

 不具者にスポットライトが当たるのは戦後の昭和23年(1948年)に傷痍軍人が第1回パラリンピックを開催したときで、日本でも昭和39年(1964年)の東京オリンピックと同時に開催された第2回パラリンピックで、当時の皇太子殿下(つまり今上陛下)が名誉顧問としてお務めになり、これを期に不具者に対する視線が変わる。

 はるか未来の話だ。昭和17年の今、そうした者たちへの配慮は現在よりもはるかに少ない。従って表現にも配慮が欠けているが、昭和17年の感覚では普通のことだ。

 こうして憲兵の誠一への容疑は濃厚となった。

「順当に考えれば誠一を憲兵分隊に連行するのが良いでしょうが……」

「なるほど、ためらわれるな」

 誠一は第4回目の事件直後に警察で取調べを受け、容疑なしとして釈放されている。さすがの憲兵も誠一を犯人と断定するには、なお確証を握る必要があった。

 そこで乙倉は、当時、浜松高等工業学校で試作した電波盗聴器を持って、夜間、佐藤宅に忍び込み、電話器その他にこれを設置した。

 平成の感覚からすれば異常だが、当時は特に問題とされなかった。そればかりか常套手段であって、たとえば政治家が政敵の寝室に盗聴器を仕掛けることもよくあった。

 結果、佐藤家の考えが分かった。

 一、本年(昭和17年)の春頃、佐藤家内であわや毒殺騒動があった。毒物を入れたのは誠一であるから、先に起きた殺人事件(第4回目の事件)は、誠一の仕業ではないか。

 二、他の殺人事件も誠一が犯人だったとすれば、これは国賊。あんな者(誠一のこと)は早く自殺でもしてくれればよい。 

 以上の会話聴取の報告を受けた大出憲兵曹長は、乙倉とともに佐藤家を訪れた。



 郊外に建つ普通の民家であった。特別裕福でもないし、かといって貧乏でもない。

「ごく普通の家ですね」

「だからこそ誠一が疎ましいのだろう」

 大出憲兵曹長は言った。普通の家庭だからこそ、人殺しなどという兇行者を家庭内から排除したい。

 ――早く自殺してくれというのは切実な願いなのか。

 乙倉は玄関の戸を叩いた。

「へえ」

 応対に出て来たのは老人であった。当主佐藤文作である。50代のはずで、これは当時の日本人の平均寿命と同じだ。それにしては恐ろしい老けようであった。すでに70を超えているように見えた。

「ごめんください。私、憲兵分隊より参りました乙倉と申します」

 憲兵、と言った途端、文作は笑みを浮かべた。乙倉にとっては意外であった。てっきり青ざめたり驚いたりするものとばかり思っていた。

 応接室という名の、普通の和室に招かれた。

「へえ、憲兵さん。どのようなご用件でしょう」

「実はおたくの息子さんのことです」

「誠一のことでございましょう」

 子供は4名いるはずである。それなのに文作は、乙倉の訪問目的が誠一であると見抜いた。
 
 まるで初めから知っていたかのようであった。それに、意外にも好意ある態度に乙倉はまたも驚いた。

 文作は絞り出すように言葉を続けた。

「憲兵さん。誠一はですね、誠一は、肉親であるわたしら家族全員を毒殺しようとしたのでございます」

 それは盗聴器によって得られた情報そのものであった。

 さらに文作は続け、第4回目の殺人事件は恐らく誠一であろうこと。第5回目の事件現場にあった綿布と全く同じ綿布を警察に提出したこと。従って警察に疑われたが、釈放された。しかしながらそののちも自分はその後も誠一を怪しんでいたことを語った。

 乙倉はこの哀れむべき老人に危うく涙するところだった。変質者であるから徴兵検査ではじかれるかも知れない恐怖。母親をとうになくし育て上げたが、間違った子育てであったかもしれない気持ち。

 当時、大人になるとは単に20歳になることではなかった。市役所の兵事科から徴兵の手紙が来て、1年間なり2年間なりの徴兵を終える。一人前の兵隊になってようやく大人として認められる時代である。

 兵隊にも行っていないクセに、という表現がよく使われた。支那事変で皇軍の活躍が報じられるたびに兵隊の価値が上がり、徴兵に行けぬ者はとかく肩身の狭い思いをすることが稀ではない。

 一方で甲種合格の者は晴れ晴れと故郷に帰って来たものだ。

 佐藤文作は兵隊にさえなれぬ息子を恥じていた。乙倉はかけるべき言葉を失った。いたたまれなくなったので大出憲兵曹長にあとを任せ、文作の取り出した綿布とともに憲兵分隊に帰ったのだった。

 乙倉は親に感謝した。五体満足で生まれることが出来、市民を恐怖させる犯人を捕らえる。人々の安寧を図る職業に就けたことを密かに思った。

 ――たまには手紙でも出すかな。

 乙倉は帰営する市電内でそう思った。



 ここですべての証拠が整った。佐藤文作が4男、佐藤誠一19歳を殺人犯人と断定、静岡地検浜名支部上席検事に報告し、犯人逮捕の手続きを申請した。

 本件は静岡県警が1年余の歳月と、延べ数万の捜査員を動員した懸命な捜査にもかかわらず、犯人検挙にならなかった殺人事件であった。

 だが憲兵の捜査出動以来約40日間、不眠不体の努力と、民間の積極的な協力を得て、ついに真犯人と断定できる証拠を固めたのである。

 ところが検事は憲兵の功績は認めつつも、静岡県警の名誉威信を考え、警察に検挙させるよう憲兵側に配慮を求めた。検察もまた警察側であった。

 また名古屋憲兵隊本部からも、同様な趣旨の指示もあり、憲警協力の見地により、昭和17年10月10日、県警捜査本部において、検事立会いの下に憲兵の捜査資料を提供し、10月11日に県警の手によって犯人は逮捕された。

 これで3年余にわたって静岡県は三島地方を恐怖のどん底に陥れた、発悪な連続殺人事件は解決した。

「分隊長殿! やはり納得いきません!」

 乙倉は声を荒げた。拳を固く握りしめ、今しも殴り掛からん勢いだ。

「言いたいことは分かる」

「そうでしょう! 資料を何も寄越さずにいて、手柄を寄越せとは! 警察とは楽なものですね」

「乙倉、それは言い過ぎだ」

「警察のメンツがあるなら憲兵にだってメンツはあります。こちらにだけ配慮せよとは納得がいきません」

「その代わりといっては何だが、乙倉。お前に司令官より表彰が来ておるぞ」

「ええっ。憲兵司令官殿からですか」

「そうだ。それに検事総長からも来ておる。つまりお前は憲兵からも警察からも褒められたのだ」

「こ、光栄の到りです。し、しかし自分だけもらう訳には」

「大出にも来ておるから心配するな。何でも検事総長のくださる捜査功労賞というのが憲兵に授与されるのは全国で初だそうだ。乙倉、おめでとう」

「はあ、いえ。これも分隊長殿のご指示の賜物で」

「それに静岡県知事閣下からも賞状授与の話が来ておるぞ。なあ乙倉。憲兵というものはな、縁の下の存在でちょうど良いのだ。普段は日陰者で、戦時も日陰にいる。けれどもなくてはならぬ。我々憲兵とはそんなものでいいんじゃないのか」

 渋川の言葉を噛み締めて、乙倉はようやく納得した様子であった。
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