憲兵野史

みゆみゆ

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第6帖 東京 昭和13年 慶応学生の窃盗

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 憲兵分隊長は一般的に憲兵大尉が就くが、例えば帝都の中枢を守る麹町憲兵分隊など、重要な箇所の分隊長には憲兵少佐が就くこととなっており、今、この麹町憲兵分隊長である渋川憲兵少佐の下に、1つの事件がもたらされた。

「盗難ですか」

 訪問者は、とある部隊の経理将校であった。もちろん麹町憲兵分隊の管内に兵営がある。

 事件というのは3日前、出征部隊で編成中の野戦病院の経理室で、本山という見習士官が、上衣の内かくし(軍隊用語で内ポケットのこと)に入れておいたはずの5枚の100円紙幣がなくなっていることに気付いたところから始まる。

「そういうわけでして、不本意ながら我が隊内に不届き者がいると断じることと相成りました。500円の窃盗を行った者がおるようでして」

「500円ですか。大金ですね」

 1000円あれば家が建つ。1万円あれば利息でどうにか生活できる。そんな時代の500円である。

 兵隊には不相応な大金であったが、だからこそ虚偽ではないと渋川は思った。嘘の窃盗事件であれば、もう少し現実的な金額を述べるはずだ。

 経理将校は話を続ける。

「その本山見習士官は、いつもその上衣を裏返しにして椅子にかけておいたそうです。それで酒保へ煙草を買いに行こうとしたとき、500円の盗難に気付いたそうです」

「部隊では調査しましたか」

 渋川は当たり前の質問をした。

 すると案の定、当然の答えが返って来た。

「もちろんです。すでに我が部隊では、残念ながら部隊内での犯行とにらみまして、将校たちがあれこれと調べてみました。しかしいつまでたってもわからない。困った果てに貴官に依頼を申し上げたいのです」

「そうですか」

 やはり、と渋川は思った。こういう事件が起こったとき、たいていは内部で解決しようとする。

 憲兵に持ち込めば事件が公になる。犯人は法に照らし合わせて厳罰に処される。部隊長としても人の子である。窃盗犯だったとしてもなるべく穏便に済ませたいと考える。

 また隊内の不祥事はなるべく表に出したくないのも事実だった。誰でも体裁を気にする。

 それに、営内の犯行を自力で解決できない部隊の汚名が着いて回る。

 そういう欠点を補ってもなお、憲兵に事件解決を持ち込むことにした経理将校に、渋川は同情した。よく見れば目がくぼんでいる。軍服もところどころにほつれがある。たぶん、3日間、夜を徹して捜索したのだろう。

 渋川はこの経理将校の努力に敬服した。

 そして同時に嫌な予感がした。部隊内で解決できなかったのである。相当の難物だろうし、かてて加えて、1つの懸念があった。



 司法班長の乙倉憲兵曹長を首班とする捜査班を設置し、事件解決のため部隊に乗り込んだはいいが、やはり懸念は的中した。

 乙倉は帰隊した。

「ただいま戻りました」

「おう乙倉。どうだった」

「やはり分隊長殿のご懸念の通りです。犯跡はすっかり荒らされてしまっておりました。恐らく隊内で捜索した名残でしょう」

「そうか。簡単な犯罪なのだが、てっとり早い解決は難しいか。見込みはあるか」

「どうにか。まあ徹夜をして何とか調べてみます」

 乙倉は一応現場を検分して、犯人はこの隊内にいるものと見込みをつけた。基本的に営内に出入りできる者は限られているからである。

 門衛もいるし、居住する人数が限られているので、顔見知りでない者が歩けばすぐ見付かる。

 また外部からの訪問者があれば官姓名を記録するのが普通だ。

 夜を徹してしらみ潰しに1人1人を調べあげた。翌朝10時頃、乙倉は薄汚れた顔、はれぼったい眼、疲労を見せながら分隊に帰って来た。

 ただその顔には喜びがあふれている。一目で成果が上がったと知れた。

「分隊長殿、やっとわかりました。東田という、これまた見習士官が、被害者本山の同僚におりまして、どうも怪しい。分隊に同行しようと思いましたが、多くの兵隊たちのいる前から拘引することも気の毒に思って、部隊長にそれとなく警視することをたのんで、とりあえず報告に帰って来ました」

「おお、それは良い判断だ。よくやった。それでその東田という者は一体どういう者なんだね」

「はっ。東田には応召前、親たちにも隠していた借金があり、出征するまでになんとかきれいにしておきたいと焦っておったそうです。これは周囲の友人から聞き出したものです。もともと、本山と東田とは共に慶応義塾大学の経済学部の同窓で、入隊前からの知り合いだったそうです」

「そうか。刎頸(ふんけい)の交わりか」

「そういうことです。共によい家庭に育ち、共にいまだ独身。社会に出てからは職業を異にしているので、このたびの応召による接近は、幹部候補生以来のことだったそうです。喜びは大層大きかったでしょう。で、ここからが核心なのですが、本山はいつも1000円以上の紙幣を懐にしていたそうです」

「そんな大金をか。こっそりと?」

「いえ、ずいぶん派手に振舞っていたので、 彼が大金をもっていることは経理室の連中はみな知っていたそうです。ところが彼はいつも無雑作に上衣を脱いで、一日中椅子にかけっばなしであったのです」

「なんて不用心な。いやかえって安全かもしれん」

 人数の限られ、出入りも限られた営内ならば、盗む者などいないと踏んでいたのだろう。そして盗まれても犯人はすぐ捕まると考えていたかも知れない。

「東田は本山と机をならべて執務していたので、ちょっとの隙があれば2、3枚ぐらい引き抜くのは訳はない、というわけです。 東田は友達の気易さも手伝ってか、お昼のあとの13時、室の中がカラッポになったとき、本山の上衣から5枚の100円紙幣を抜きとってしまったのでしょう」

「魔が差したのだな。で?」

「その夜のうちにこの金で借金の返済を済ませております。遊ぶことも出来たはずですが、きっちり返済するだけ立派でしょう」

「窃盗をしておいて立派とは、いささか乱暴だがね」

 さて、と渋川は考え込んだ。 

 東田を窃盗事件として軍法会議に送ることはわけもないことだが、500円の窃盗で営倉送りのみならず服役するのは、あまりにもかわいそうである。

 彼は春秋に富んでいる。それだけではない。 この軍国風潮の中で、出征を控え、まもなく征途にのぼろうとしている。万歳万歳の歓喜の旗で送られた数日前の感激は、なお身にこびりついているだろう。

 さらにまた、これを知った家族たちはどんなに嘆くことか。肩身の 狭い思いで世間に顔向けもできないだろう。

 何とかして、つつがなく戦友と共に戦野に発たしてやりたいものだ。そう渋川は考えた。

 ――しかし、盗んだという既成事実はどうにもならない。 

 渋川は沈思黙考した。

「……よし。出掛けて来る」

「どちらへ」

「動員担当の歩3留守隊長だ」



 渋川が歩兵第3連隊の留守隊長を尋ねると、運良く在室で、さっそく捜査結果を述べることが出来た。

「これこれこういう捜査の結果、一見習士官の犯行とほぼ見当がついた。だが微罪ではあるし、あの歓呼の声に送られて数日もたたぬ間に刑務所送りにすることは、いささかしのびない気がする。 俺は彼を部隊と共に出陣させてやりたいと思うが、貴見を伺いたい」

 すると留守隊長は深々とうなずいた。それは渋川に頭を下げたようにも見えた。

 「貴見に全く同感です。ぜひそのように取り計らってもらいたいと思います」

  それから渋川は隊内で編成中の野戦病院長を訪ねた。東田の所属部隊長である。一応捜査の経過を説明してから、こう言った。

「わずかの罪で、この若者の一生を台無しにしたくない。今はただ戦場でご奉公させてやりたい。だが、罪は罪、このままではそうもなりかねる。もし貴官が今後彼にいて一切の責任をもち、指導を加えていくことを保証していただくならば、俺は、彼を不問に付したいと思う」 

 予備の2等軍医正(軍医中佐)の野戦病院長はしばらく考えていたが、やがて答える。

「わたしにとって事は重大と思うので、しばらく考えさしてほしい」

 即答を避けたが、当たり前のことだ。この軍医中佐にしてみれば、何もないところへいきなり、すねに傷のある者を受け取れというのだ。無理からぬところである。

 その翌朝、軍医中佐が来隊した。

「分隊長のこの厚情、ありがたく感謝します。東田はこのわたしが貰い受けましょう。よく考えてみれば、これまで知ることのなかった者が、上官となり下官となるのもなにかの因縁と思います。たとい罪を犯した者でも、近く編成完結の上は、わたしの部下ということになる。わたしは彼の面倒をよくみてやりたいと思う。再びこうした過ちをおかさないよう、最善の指導を加えたいと思うので、よろしく願いたい」

 渋川はこの軍医中佐の誠意を信じ、この事件を不間に付することにした。

 だが問題はこれで済まない。この事件は、すでに部隊内に知れわたっている。あるいは、この東田見習士官が犯人だとの風説が流れているかもしれない。それを払拭せねば、東田は隊内で孤立してしまう。

――よし、こうするか。

 渋川は乙倉を呼び、急いで金500円、しかも100円札5枚の調達を命じた。

「分かりました」

 乙倉は一も二もなく了解した。

 すでにわかっていたが、東田の実兄は蒲田付近で相当な機械工場を経営していた。乙倉は、この実兄に事情を話して500円を弟のために立て替えることを求めさせたのである。そしてそれはそのとおり夕方頃には憲兵分隊に届けられた。

「ご苦労」

「いえ」

 渋川それを自分の机の引出しの中にしまい込んだ。翌日は、東田たちの部隊の軍装検査が午前10時から行なわれる。

 渋川は本山および東田の両見習士官に憲兵分隊に出頭するよう命じた。

 ここからが渋川の仕事である。

 まず本山見習士官を自室に入れた。本山は長身で、生まれと育ちの良さをにじませる、ひとりの若者だった。本山は人ってくるなり不動の姿勢で、渋川の前に立った。

「本山見習士官であります」

 この言葉が終わるか終わらぬか、一瞬、渋川は怒号した。

「馬鹿者! 貴様ほど馬鹿はいないぞ!」

 本山は唐突の罵声で面くらったらしい。

「お前の軽はずみで、 全員が迷惑しておる。お金がなくなったら、同僚や周囲の人びとに、どろほう、どろぼう、と大騒ぎするから、事を面倒にするのだ」

 本山は上官たる渋川の前だから神妙に聞いてはいるが、おそらくなんのことか分かっていないのだろう。あいかわらずきょとんと立っている。

「お前は何も盗まれてはいないのだ」

 渋川は机の引出しから、入れておいた5枚の100円紙幣を取り出し、机の上に置いた。
 
「お前の取られたというのはこれだよ。よく改めてみよ」

 手渡す紙幣を彼は反射的に受け取ったので、渋川はこう説明したのだった。 

「お前は大金のあることを見せびらかしている。それが良くない。その上、大雑把に上衣に入れ、その上衣は脱ぎ捨てている。取ってくれといわんばかりではないか。良いか。お前の隣にいる東田はこれを見て、お前に意見するつもりでいたのだ。決して盗もうと思って、金を盗んだのではない。あとでお前に事が分かれば警告するために、あえて抜きとったのだ。その友情に感謝せよ」

 渋川は怒濤の勢いでまくし立てた。

「ところがお前が騒ぎ立て、どろほうがいると言っておったな。そして東田が容疑者とされたのだ。だが翻ってみればなんのことはない。どこにも犯人はいないのだ。わかったか!」

 本山は事情を飲み込んだらしい。

「わたしが軽率でありました」と言の抗弁もしなかった。

 上官たる渋川の気合いのすさまじさにその機会を失ったのかもしれない。ここまで来れば勢いで通すしかない。

「しばらく待て」といいおいて、渋川はベルを押した。

 顔を見せた憲兵に、こう命じた。

「東田を呼べっ!」

 東田はおそるおそる入ってきた。

「お前も馬鹿者だ。憲兵隊が取り調べなければお前はどろぼう犯になるところだぞ。そうだな?」

 東田は「申し訳ありません」というかと思ったが、さすがに良心の呵責に堪えないのだろう。東田は黙ってうつむいてしまった。 

 渋川はこの2人を並べておいて改めてこういった。

「兵隊の介入で、もう事は済んだ。聞けば今日は軍装検査があるというではないか。そうすれば近々には出征ということになろう。お互いにすべてを水に流して助け合い、いずれに立ち向かうかしれないが、あの温厚な軍医中佐を助けて、国家のために、一身を投げ出して働いてくれ」

 ここまで言うや、本山と東田とは泣いて抱き合った。上官たる渋川のいるのも忘れたかのように。
 
「いや俺が悪かった。許してくれ」と、東田は泣いた。

「しっかりやろう。第一線で立派に働こう。信じてくれ。いやお互いが信じていこう」

 本山は事の真相を受け入れたが、水に流す気であったらしい。美しい友情がそこにあった。

 見ている渋川も眼頭が熱くなった。

「もうよい。身体に気をつけて行け」

 彼らはやっと離れてわたしの前に直立した。 

「本山見習士官かえります」 

「東田見習士官かえります」

 彼らは眼を真っ赤にし、興奮のままに立ち去った。将来有望なる2人の若者の出ていくのを見送って、渋川もまた劇的な緊張から解放された。犯人を取っ捕まえ、軍法会議に送るのは易い。しかし前途有望な若者を、こうして見送ることもまた、憲兵の仕事のひとつであった。

 「彼らは必ず立派に働いてくれるでしょう。それにしても見事な裁きでした」

 乙倉が褒めてくれた。

「大岡越前も今日の俺を認めるかな」

「そうでしょうね」

 乙倉が半ば呆れた笑みで答えた。その日、渋川の身体にはある種の快気がみなぎっていた。
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