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第7帖 三重 昭和11年 現職憲兵の強盗殺人
しおりを挟む精強を誇った日本陸軍、その陸軍の中より精選された憲兵。
軍紀、風紀の権化とも思われた現職の憲兵が、自分の地位を利用して、商人をおびき出し、殺人強盗を働いた事件が、二・二六事件で帝都に戒厳令が布かれている非常事態の中で起きていた。
「そんな事件があったのですか」
乙倉憲兵上等兵は驚いた。ここ八日市憲兵分隊に着任して間もない。ようやく上官の顔を覚え、市内の様子が分かりかけて来た頃である。
上官たる渋川憲兵軍曹は重々しくうなずいた。
「昔な。ここでそういう事件があったのだ。むろんお前以外の全員が知っておる。お前が知っておらんで当然だ。着任前のことだし、分隊の汚点だからわざわざ言うことでもあるまい」
「どういう事件だったのですか」
「それはな」
居酒屋の一隅である。渋川はすでに酒気を帯びているし、周囲の喧噪も手伝い、つい口が軽くなっている。赤ら顔で軽快な口調である。
三重県は大津憲兵隊本部の管下である八日市憲兵分隊に、昔、憲兵軍曹西本がいた。八日市憲兵分隊着任後、間もなく妻と死別し、1男1女と実母の4名でつつましく暮らしていた。
西本は妻死別後の寂しさを紛らわすため、八日市町の遊廊に通い始めたが、所詮、憲兵軍曹の俸給では永続きはしない。
西本は遊興費をつくるため、次第に借金を重ねるようになった。その後、馴染の娼妓が郷里松山市に帰郷したが、西本はなお文通を重ねていた。
しかし、西本はついに借金の返済に窮し、昭和11年6月3日、大津憲兵分隊在任中に知り合った、大津中堀町の鉄層商八木鉄次郎(56歳)に電話をかけた。
「実は今津におるんですが、飛行機が3機墜落し、今夜払い下げの入札がある。300円は必ず儲けさせるから落札金1500円を持参して欲しい」
そう前もって連絡をし、同日夜八木を同道の上、江若鉄道で午後11時頃、今津町に到着した。
西本は、当日無人になっていた陸軍廠舎に払下げ物件があると偽わり、八木を同廠舎に案内し、門内であらかじめ所持していた拳銃で八木の頭部を射って瀬死の重傷を負わせ、現金70円と金時計とを強奪した。
だが、目当の落札金1500円を、八木は所持していなかったのである。このため西本は犯行直後直ちに被害者宅に引き返し、落札金として用意してあったはずの1500円をだまし取ろうとしたが、家人が西本の態度に不審を抱いたので、目的を達することができなかった。
この後、やけ気味に大津市内の遊廊に登楼した西本は、午前5時頃、タクシーで大津から神戸に出て船で松山に行く途中、 高松港で一旦下船したところ、同港桟橋で松山憲兵分隊員の検問に会った。
「逮捕されたのですか。その憲兵は」
「いや。犯行の露見を恐れたのだろう。拳銃自殺した」
一方、重傷を負った被害者の八木は、這うようにして今津町のタクシー会社にたどり着き、「憲兵と思い信用したのが間違いであった」 と言い残して午前5時頃絶命した。
また、タクシー会社から殺人事件の届出を受けた京都憲兵隊本部は、隷下の各憲兵分隊及び各府県警察に手配したが、この頃、西本は神戸市内に潜伏し、巧みに別府行きの客船紫丸に乗船したものと思われる。
この事件は折から二・二六事件の事後処理のため、憲兵主力が東京に集中し、地方の憲兵隊は手薄で多忙を極め、上司の部下監督が行届かず、同僚間の接触も疎外になりがちであった。
その間隙に起きた単純な事件とはいえ、軍の儀表であるべき憲兵が軍の歴史に一大汚点を残した事件であった。
だが、この事件は、ひとりの惜しい人物を現役から失うことになった。
犯人西本の直属の上官である京都憲兵分隊長新見英夫大佐は、相沢事件の折、永田軍務局長を殺害した相沢中佐の背後から、必死に抱きつき負傷した、あの新見大佐である。
新見大佐は相沢事件で名誉の負傷をしたが、責を負わされて京都に左遷され、西本の殺人事件で予備役になるという、軍人としてはまことに不運な人であった。
「新見大佐は気の毒です。相沢事件ではあれほど勇敢でしたのに。どうしてこうも運に報われないのでしょうか」
乙倉はつぶやいた。返事はなかった。渋川はいびきとともに夢の中にいた。
乙倉は苦笑して、机の上に残った肴を平らげにかかった。
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