憲兵野史

みゆみゆ

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第10帖 東京 昭和11年 狂人(きちがい)の説得

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 赤坂憲兵分隊長だった渋川は、昭和11年秋のある日、陸軍大学校時代の教官であった、誉田(ほんだ)中佐の訪問を受けた。

 誉田中佐は満洲事変勃発当時、石原莞爾作戦課長のもとで作戦参謀だった人で、顔見知りの間柄であった。

「お久し振りです。誉田さん」

「渋川。君も元気そうだなあ」

 2人は和やかなうちに会話を始めた。陸大卒業以来会うことはなかった。つもる話は山のようにある。

 世間話を一通り終えた後、誉田中佐はやがて、言いにくそうにこんなことを話した。

「実はわたしの同期生で、早く大尉ごろにやめた人だが、このごろ気が狂って松沢病院に入っている。寺田というのだが、満洲事変がおこってから関東軍の嘱託となって、情報関係の仕事をしていたが、半歳ほど前に頭の具合いが悪いというので辞め、内地に引き揚げて専ら静養していたが、だんだん調子が狂ってしまった」

「予備役ですか」

 当時、精神病者に対する理解は少ない。古くは癲狂院(てんきょういん)と呼ばれた精神病院は、一度入れば2度と出て来られぬ場所として、地元住民さえ恐れた。

 それも当時は、精神病がなぜ起こるのか不明だった時代であって、一概に非難することは出来ない。昔はなったら死ぬしかなかったガンも、切除や薬の治療法が確立されたように、医学の発展が追いついていなかった。

 そうした時代の精神病者はもはや表舞台から退くよりない。予備役とは軍人が現役を退き、召集あるまで待機することをいう。もっとも精神病者に召集はかかるまいが。

「いや。書類上はまだ現役だがね。しかし乱暴するのではなく、いつもじっと、ふさぎ込んでいる。いろいろと臨床的にも検査してもらったが、はっきりその原因はつかめなかった」

 そうだろうなと渋川は思った。

「だが、この2ヶ月ほど前から、寺田は時々発作におそわれるんだよ。『憲兵が来た! 憲兵が来た! 俺は憲兵に狙われている。憲兵が俺を縛りに来る!』と、そう狂わしく叫んで狂騒状態になる。夫人の手に負えないので、松沢病院に入れたが、決して乱暴を働くことはない。だから病院でも静かに一室に入れておくだけで、厳重な監視はしていないということだ」

「暴れることもなくおとなしいのですか」

「そういうことだ。つまりは葦原天皇の前身というべきかな」

 渋川は苦笑した。

 誉田もまた自分で言っておいて苦笑いしている。

 葦原天皇こと葦原金次郎は嘉永5年(1852年)生まれの櫛職人で、24歳で精神分裂病(今の統合失調症)を発病したらしく、以来ずっと松沢病院に入院している。

 もはや86歳になろうという老人だが、その誇大妄想癖はマスコミに取り上げられ、病室にまで取材が殺到した時期もあった。葦原本人もいつしか将軍を自称し、ついには天皇を僭称し始め、新聞もこぞってこれを面白おかしく取り上げた。

 ついたアダ名が葦原天皇である。もっとも本人は本気であるから、取材のときには最敬礼をしなければならない。

 勅語を発布して売ったり、伊藤博文を友人だと言ったり、明治大帝行幸の折りには「ヨウ兄弟」と軽口を叩いたり、ネタには事欠かない人物だった。

 新聞のネタに困ったら葦原天皇に会いに行け、がマスコミ各社の合い言葉になっていた。

 とまれ、誉田は悩みを続ける。

「ところで、夫人はどうして主人がこんなことを口走って恐怖状態になるのか、その原因なるものをつき止めようとするが、思いあたる節がないのだそうだ。主人の持ち物などを調べても、憲兵に狙われるような資料は何一つないというのだ」

「それなのに本人は憲兵に怯えておるのですか」

「そうだ。寺田の頭の中には、何かこびりついたものがあるに違いない。もともと寺田は小心者で気が小さい。独りで取り越し苦労するタチの人だったから、何か潜在意識があってこれにとらわれると、一途に憲兵恐怖症に襲われてくるものと思われる。こんなことで、夫人の申し出で、かつて関東軍の法務部長をしておられた大山陸軍省法務局長にたのんで説得してもらったことがある」

 寺田は大山局長を関東軍法務部長と思い込んでいたのだろう。法務部長がいうのなら俺を逮捕することはあるまい、と考えついたらしい。

 この局長の説得は功を奏したようで寺田もすっかり落ちついて、1週間ばかりは平常と少しも変わらない態度だったそうだ。

 このままで済むならもう安心だと、夫人や親戚たちが喜んだのも束の間、またもや考え込むようになった。

 気鬱病というのか憂鬱症というのか、また逆戻りだ。それがつい10日ほど前のことなのだ。

「そこで君にお願いなのだが、渋川君。ひとつ君に説得してもらえないものか。こんなことで君を煩わすのはまことに恐縮なのだが、実は夫人がぜひ、本当の憲兵さんに憲兵はお前を逮捕することはない、とはっきり一言いってもらえば、それで主人も安心して、この不安から逃れるのではなかろうかと、たっていわれるので、あるいはこれもよい手かと思い、寺田の回復には薬でもつかみたい気持ちの夫人の立場に同情して、あえてお願いに上がったわけだ」

 この申し出には渋川も驚いた。

 誉田中佐の長話を聞きながら、こんなことは我々憲兵の仕事ではない。この忙しいさなかに気狂いの世話まで引きうけることはあるまいと、心の中で反発していた。

 だが、これを自分の立場にかえて考えてみたらどうだろう。やはり同じよう に人にすがりつこうとするに違いない。なにもこれを引きうけても憲兵隊に傷をつけることではないし、隊員を使うことでもない。

 ただ自分一人で済むことなのだ。渋川は心よく引き受けた。

 すると誉田は顔をほころばせる。

「それはありがたい。明日の朝にでも寺田夫人を伺わせるから、よく事情を聞いて説得してもらいたい」

 誉田中佐は喜んでかえっていった。 



 あくる朝夫人が見えた。まだ若い方だったが、どこか疲れを感じさせる。

「ご本人は?」

「主人は松沢病院におります。主治医の話ですと外出は控えるようにと……」

 疲れた顔で、夫人は疲れたように言った。

 渋川は一応最近の状態を聞いてから、夫人と一緒に車で世田谷の松沢病院に走った。

 病院では夫人が主治医に会ってから、渋川を病室に案内した。夫人はにこにこした態度を取った。

「あなた。今日は憲兵隊長さんがお出で下さったのですよ。さあ、なんでも隊長さんに伺って、あなたの疑いを晴らして下さいよ」

 かんで含めるように病人に話しかけた。

 渋川の入室をちらっと見てとった寺田は、寝台上に起き上がり、胡散くさそうに渋川をなめるように見つめている。

 身体は軍人らしくガッチリしているが、眼はうつろでどこか抜けている。やはり病人だなあと渋川は思った。

 寝台の横に椅子があり、わたしは夫人のすすめでそこにすわった。夫人はまた語りかける。

「なんでも隊長さんに聞いて下さい。さあ、どんなことでも構わないのですよ。あなたが心の中で心配していることを、すっかり打ちあけてこの方に相談して下さい。隊長さんはあなたのことを心配してきて下すったのですから」

 だが、寺田はあいかわらず黙って渋川を見すえていた。

 渋川はここで口を切った。

「お加減はいかがですか。わたしはあなたと同じように最近まで関東軍の憲兵隊にいたのですが、今は赤坂憲兵隊にいます。そしてあなたのご住所の原宿あたりは、わたしが管轄しているのです。この襟章を見たらわかるでしょう」

 寺田はかすかにうなずいた。

「ところで、奥さんのお話だとあなたがなにか憲兵に追われていると、たいへん心配しておられるとのことですが、なにかの間違いではありませんか。憲兵隊はあなたをつかまえようとか、調べようとかの考えは全く持っていません。だからそんなことはあなたの思い違いで すよ。そんなことで心配してくよくよしているなんて、全くバカ気た話です。わかりましたか」
 
 寺田はじっと耳を傾けていたが、今度は大きくうなずいた。話が通っていると見たので、渋川はさらに語をついだ。

「憲兵隊には管轄というのがあるのをご存知ですか。東京以外の各地からいろいろ手配がまわってきます。たとえば満州で不正を働いて東京に逃げかえってきても、その報告は必ずこの管轄の憲兵隊でするものです。だからあなたが満州でなにかしたら、とっくにその手配がこのわたしのところにきているはずです。それが全然ないのですから、あなたのご心配は全く無意味ですよ。この場合もし憲兵があなたを逮捕しようとも、わたし以外には逮捕する権限がないのです。そのわたしがあなたを逮捕しないと言っているのですから、これ以上の保証はありますまい」

 寺田は身を人れて聞いているようだ。眼にもいくらか力が加わってきたように感じた。

 寺田は口を開いた。

「それはほんとうか」

「もちろん、わたしはわざわざウソをいいきたのではありません」

「それでは私に一札書いてくれますか、絶対に逮捕することはないと」

「書きましょう、お望みとあらばすぐここで書いてあげてもよろしいですよ」

 そこで突然、夫人が口を切った。

「そうれごらんなさい。憲兵さんはあなたを絶対つかまえないと断言していらっしゃるではありませんか。これであなたも安心したでしょう。よかったですね」

 彼は初めてほっとしたように見えた。渋川はしおどきだと思ったので、すっと立ち上がって言った。

「ではどうかお大事に。その証明書のことですが、ぜひ必要だったら、あらためていってきて下さい。わたしの所の公文書にし、わたしの職印を押してさしあげますから」

 夫人は頭を下げた。

「まことにお手数をかけました。今日だいぶ反応がありましたから、よい結果がでることと思います」 

 嬉しそうに見送りに出た夫人に、こう挨拶されながら、車中の人となった渋川は、誉田に言った。

「狂人と憲兵か。あまりかんばしくない話だが、それでもこれで人ひとり助かるのですね」

「そうとも。ありがとう渋川君」

 ――だったら、俺の心の虫も文句をいうことはあるまい。

 それから数日たって、寺田夫人から電話で礼が届いた。

 あれからずっと落ち着いて、この分では予定よりも早く退院できる見通しだという。

 渋川は満足感を覚えた。

「ま、俺の演技で苦しむ人が救われたならばよしとするかな」
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