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第9帖 北海道 昭和20年 脱走兵の詐欺殺人
しおりを挟む昭和20年6月末、沖縄第31軍の壊滅が決定的になると、本土決戦を呼号する軍部の士気高揚も、最早民衆の戦争意欲を盛上げるまでには到らなかった。
かくて6月23日、牛島満中将は自決し、ここに沖縄の組織的防衛は終わりを告げた。この事実は翌24日、新聞報道がなされ、国民に衝撃を与え、本土決戦間近しをひしひしと感じさせた。
そして戦局の決定的な非勢は内地の将兵にも虚無的、刹那的な感情を生み、軍隊内においても種々の犯罪が多発した。まさに亡国への末期的現象といえる様相を呈していた。
北海道は函館憲兵分隊の管内においても、上官殺人事件、人事係士官の汚職事件、船舶部隊下士官の船の燃料横流し事件、将校の逃亡事件などが相次ぎ、軍紀の地緩はすでに目を覆わしめるものがあった。
この渦中にひとり憲兵は軍紀の維持、軍擁護のために、敢て憎まれ役をつとめていたのである。
ある日、函館憲兵分隊の警務班長である渋川憲兵曹長は、函館駅警戒中の部下から次のように妙な報告を受けた。
「戻りました。どうにもおかしな将校がおります」
「おかしな?」
渋川は眉をひそめた。話を聞くことにした。
「はい。駅前の旅館に陸軍中尉が1人宿泊していますが、よく見ると、軍帽には白線が入っておるのです。それに軍服はダブダブで、まるで借物のようです。それに女中に空中戦の模様などを得意気に話しておりますが、女中はどうも様子がおかしいといっております」
報告に来た乙倉憲兵伍長は、白線の入っている軍帽は、演習のときに着用するものと思っていたのである。
このあたりで演習が行われる予定はない。それを乙倉は奇妙に思ったのだった。
「軍帽に白線? 間違いないな」
「はい」
「そうか。いやよく知らせてくれた」
当時、軍帽に白線を着けていたのは落下傘部隊だけであった。渋川はこの事実を知っていた。だからこそ、乙倉以上に奇妙に感じた。
落下傘部隊は日米開戦劈頭、パレンバンへの降下で一躍有名になった。それが『空の神兵』のタイトルで映画化され、同名の曲は軽妙な調べで、軍歌とは思えないほど軽やかだ。
そんな落下傘部隊が空中戦をやるはずがない。戦闘機乗りと落下傘部隊とでは共通点などない。しかも体に合わぬ軍服を身に着けている。その将校はどうも怪しい。
憲兵としての第六感が働いたのである。
「分かった乙倉。一応、その中尉の言動を慎重に調べるんだ。外出時の尾行も抜かるな」
くれぐれも慎重に調査をせよ、という意味の命令である。
「分かりました!」
乙倉は元気いっぱいに返事した。
◆
ところが翌朝、乙倉は、こともあろうに、憲兵の制服のまま、正面から旅館へ乗込んでしまったのである。
「憲兵ですが、こちらにお泊まりの中尉殿にご挨拶をと思いまして……」
相手が本物の将校であった場合に備え、言葉遣いには気を遣う乙倉であった。応対に出た女将は困惑した表情でやって来た。
それを見て乙倉は、抜かったかな! という考えが頭をよぎった。
「あのう。憲兵さん。来て頂いて恐縮ですが、中尉様のお姿が今朝から見えないのです」
「やはり! しまった」
幸か不幸か、すでに謎の中尉は旅館から姿を消していた。
乙倉は地団駄踏んだが、後の祭である。やむなく旅館の主人や女中に謎の中尉について証言を取ると、次のことが判明した。
一、七飯村(函館から十数キロ北方)の3番に数回電話をしていた。
一、千代ケ代山町(現在の函館市内)に女がいるらしい。
一、入隊前、北海道へ来て、森町の商店で働いていたことがある。
一、憲兵が来たのを知ってひそかに旅館を抜け出している。
七飯村の3番は、七飯郵便局であり、千代ケ代山町の女性の名もわかった。そして森町とは、函館本線で函館から約1時間北上した内浦湾の漁港であった。
本人は消えてしまったが手掛かりは多く残された。さっそく乙倉は森町の商店を調べ、さらにその足を七飯郵便局に伸ばすつもりだった。
◆
一方、渋川は千代ケ常町の女性を探して憲兵分隊に招いた。タ方、例の女が函館憲兵隊に出頭した。
「その謎の中尉とやらは君の夫かね」
「とんでもない」と女は否定した。「あの中尉さんとは偶然街で知り合っただけです。夫の知り合いだというので、数回自宅に招いて食事を振る舞いましたわ」
話し振りからして不貞の関係ではないと渋川は思った。
「では君はあの中尉のことを何も知らないのか」
「ええ。ですが夫の同僚の方ですから」
当時、軍人が民家のもてなしを受けたのは特に珍しいことではない。しかも謎の中尉は、その女の夫と同じ部隊にいたとうそぶいたという。夫の同僚と名乗ったのだ。これでは食事に招待しない訳にはいかない。
携帯電話もテレビもなく、電報や電話が一般的な通信手段だった時代である。真偽は確かめようがないし、そもそも人を疑う発想が現代よりも少ない。
――うまいこと考えていやがるな。
敵ながら、渋川は感心した。この軍国調の世の中を、まるで流れに身を任せる浮き草のように、ふらふらとあてどなくさまよう謎の中尉。
女を返したあとで考えた。何となくだが、あの中尉は似たような手口で食にありついているのではないか。
卓上電話がジリジリと鳴った。電話交換手に尋ねると、七飯郵便局からであるという。
――乙倉だな。
渋川はそう直感した。そして実際、そうであった。電話口の向こうで乙倉がやや興奮気味に報告した。
『分隊長殿。やはりその中尉は怪しいです。いえ、それどころか黒です』
「何があった」
『例の謎の中尉ですが、とうとうやらかしましたよ。七飯郵便局長のご夫人を殺害して逃亡しました』
「何だと!」
『目撃者の談では山の方へ逃げたということです。ただちに捜索が必要です』
「よし分かった。お前はそこで待機せよ。こちらに連絡要員を1名残すから続報あればただちに入れよ」
『分かりました』
たとえ偽将校であったとしても、軍人の殺人事件となれば憲兵隊の 仕事である。これは大変なことになったと、渋川が、ふと部屋の柱時計を見ると、午後10時近くであった。
渋川は直ちに非常呼集を行い、部下約15名を連れて、夜中、トラックで七飯村へ急行した。現場検証後、郵便局内の一倉庫に捜査本部を設け、捜査を開始したのである。
郵便局長を取り調べながら、渋川は真相を深めた。
「局長さん。昨夜ですが、所用で函館へお出かけでしたか」
「左様です。憲兵隊長さん。局内には、わたくしの老齢の夫人が1人でありました」
「犯人の心当たりはありますか」
「恐らく笹岡という中尉であると思います。わたくしの息子の知り合いであるらしく、当郵便局にも幾度か電話をかけてきておりました」
「息子さんの知り合いで?」
「そうらしいです」
渋川の直感は事実になった。やはりあの笹岡とかいう中尉は、出征軍人のいる家庭を狙って点々としているのだ。
この老局長の息子が、内地の連隊に入隊していたのをどこかで知ったのだろう。
「ではその中尉は息子さんの上官と称して……いえ、上官と名乗り、4、5日前から郵便局へ泊まっておったのですね」
「そうです。将校さんですし、こちらは疑う理由もなく歓待しましたが、まさかこんなふうになるなんて……」
「胸中お察しします。事件前日に外出したのですか、その笹岡は」
「はい。函館に用があるとか言って一夜留守にしました。わたくしも夫人も息子の上官と信じていたので、奴を手厚くもてなしたのに……」
同情を禁じ得なかった。出征軍人家族を狙い卑劣な手口であった。
しかし疑問が残る。
笹岡が局長夫人を殺す理由がないのだ。これだけ親切にされていたのをなぜ殺すのか。何しろ騙すべき相手は自分を息子の上官と信じている。適当な理由を付けて立ち去れば、こんな騒ぎにはならない。
それなのに殺人を犯した。
ところが、金品を盗んだ様子はない。何が目当てだったのか、まったく不可解な事件であった。
――整合性が取れん。もしや異常者か?
第六感であった。恐らくは中尉というところから偽りで、犯人の精神状態が異常であろうと渋川は推定した。
渋川は、刑事事件の捜査ならばベテランの部類だ。
まずは地図をにらんで状況判断である。まず、北方大沼公園に接続する名もわからぬ山々を逃亡先とみて、直ちに青年団、消防団の協力で夜間の山狩りを開始した。
「地元住民にも注意を喚起せよ。相手は人殺しだからな」
ところが、渋川がそんな配慮をするまでもなく、恐怖の殺人事件に直面した七尾村の農家の人々は、戸を閉ざし、灯りを消して、家の前に台を置き、その上に握り飯を3、4個並べて息をひそめていた。
腹を減らした犯人に、家の中に入られては困るという農民の知恵で ある。
◆
第1回の山狩り捜査は失敗した。翌朝、休息した捜査隊は第2回目の山狩りを行ったが、やはり犯人は発見できなかった。
捜査3日目、事件を重大視した函館憲兵隊長谷口守一大佐は、ふたりの憲兵准尉を応援に派遣してきた。本部が本事件を憂慮している証だった。
また、北海道庁警察部も、刑事部長志村警視を捜査本部に派遣するなど、捜査態勢が強化された。そこで、柴田曹長は捜査本部にいる必要なしとして、約10名の部下を指揮して自ら機動的に捜査を開始した。
◆
そのころ乙倉はひとり別行動をしていた。まず、犯人笹岡が勤めていたという森町の商店主に会った。
「憲兵さん。まあ聞いてくださいよ。あいつは確かに数日前に尋ねて来ましたがね」
「来たんですね」
「それも中尉の軍服なんか着ていやがるから、おかしいなと思っておったんです。あいつは店員時代に悪業で首にしたんですよ。元・勤め先がウチなのは間違いないが、大した店員じゃありませんでした」
「素行が悪かったのですか」
「そうですよ。しかもあいつは教育がなくて、計算もロクに出来なかったはずですよ。そんな笹岡が将校になれるのかと不思議でしたよ」
やはり中尉は偽装ではないか。乙倉もそう思い始めた。
◆
やがて憲兵のみならず、森警察署の刑事も捜査を開始したので、たちまち事件の噂が市内に広がった。憲兵隊は新聞報道を禁止していたが、人の噂は押え切れない。あっという間に事件は巷間に知れ渡った。しかも虚実織り交ざって。
さらに森署の協力によって、笹岡が店員時代に不良行為で警察に留置された過去まで判明した。ちようど、笹岡が姿を現したことを聞いた警察が、注意し始めたときに犯行が起きたとのことであった。
「どんどんボロが出て来ますね。あ、分隊長殿。笹岡ですが、森町と函館との間を主たる活動拠点にしておったようです」
「活動?」
「はい。小学校や役場へ寄って講演して歩いていたらしいのです。もちろん乞われてではありません。自ら売り込んだのでありますが、その話は体験談と称して空中戦などを披露していたのです」
「なんと奇妙なことをする男だ。金品の要求は?」
「謝礼は出れば受け取ったそうですが、無理に要求はしなかったそうです」
「意外だな。金目当てではなかったということか」
◆
渋川の機動捜査は、やがて大沼公園で重要な聞き込みを得た。
軍服は着ていないが、人相ぴたりの男が、恵山岬の方へ向かったという情報があった。
そこで渋川は直ちに狭い悪路を途中まで追ったが、いくつかの疑問に気付いた。
「戻れ」
「はっ。引き返すのでありますか」
「そうだ。見ろこの悪路を。函館本線を利用せずに行くには道は悪いし、距離は約60キロ近い。それに乗り物もない」
「徒歩では難しいですね」
「目撃証言では背広を着ていたというが、軍服を脱いだことはわかるが、では背広は一体どこで手に入れたんだ。盗難の被害届は出ていないぞ」
「すると誤報……」
「可能性が高い。大沼公園に戻るぞ。こっちのは外れだ」
渋川の一行が再び大沼公園まで戻ると、駐在巡査が喜色満面。犯人を逮捕したという。その報告に本部隊員は喜び、即座に帰隊した。
事件は終熄したと思いきや、実は捕われた犯人は単なるコソ泥であった。
「紛らわしいことをしおって!」
渋川は珍しく感情を露わにしている。
◆
だが、事件は意外な終局を見せた。大包囲陣に逃げきれずとみた笹岡は、空腹をかかえて七飯駅の警官に自首したのであった。笹岡は一応警察で調べられた上、函館憲兵分隊に回わされ、渋川が取調べ担当となった。
取り調べの結果、肝心の犯人の方は、渋川がにらんだ通り、大沼公園に接続する山中の中腹にある小さな馬頭観音堂の床下の穴に入り、上に板の蓋をして隠れていたのである。
山狩りの人々は、その直前にまで行きながら、その板をとらなかったので、犯人を見過ごしたのであった。
笹岡(23歳)は本名で、甲府連隊の歩兵科の一等兵であった。甲府陸軍病院に入院中逃亡し、出征兵士の留守宅を専門に回わって、詐欺行為をしながら北海道に渡ったのであった。
途中、青森の浪岡町で出征中の将校の留守宅を狙い、まんまと金品および将校服から長靴までせしめたのであった。中尉の服装もここで入手したもので、大きさが合っていないのにも説明がついた。
さらに捜査がすすむと、笹岡は入院以前、17歳の頃に茨城の内原訓練所(元首相で元海軍大臣たる加藤完治の満蒙開拓青少年義勇軍)に入所し、渡満後は満州でだいぶ荒っぽいことをやってきたという。
整合性が取れぬ行動をしていたのは、ここでの経験のせいであった。
そこで犯行の原因であるが、七尾村の郵便局長宅の世話になるまで、笹岡は軍服を信用する留守家族を巧妙にだまし続けてきた。ところが、4、5日郵便局に世話になっているうちに、函館に遊びに出かけた。
旅館で遊んでいたところへ、憲兵が訪ねてきたのを、いち早く発見して逃げた。だが、行先はなく、再び七尾村の郵便局へ戻ったのが、夜の9時頃であった。笹川は閉っている表の戸を叩いたが、この日は局長が出張中で、1人留守番をしていた局長夫人は耳が遠い。
そこで裏へ回り便所の窓から入ったが、大きな音を立てたので、局長夫人が何事かと便所まで見に来た。
このときに笹岡の脳裏にふと邪心が芽生えた。
このまま強盗になって夫人を殺害し金を奪って逃走してやろうと思ったのである。
さっそく夫人を軍刀で殺害し、金品を捜しているうちに、隣りの娘が、隣家の異変に気づいて騒ぎ出したので、何も取らずに慌てて山へ逃げたのであった。
逃走中、巡査や村人に会ったら軍刀で斬る覚悟をし、憲兵に会ったら自首するつもりだったと自供した。
犯行の動機は便所から入れたためと、強盗と間違われるだろうというのが、一瞬の判断であった。
もし、表から戸を叩いたときに、夫人が起きて開けてやれば、事件は発生しなかったかも知れない。渋川の結論は、やはり満蒙開拓時代以来の笹岡の行為に、異常ありとして軍法会議へ送った。
◆
「笹岡一等兵ですが、死刑でしょうか」
乙倉がおずおずと尋ねた。
「現役軍人だ。殺人の上に窃盗、詐欺。可能性は高い。しかし残念だ。あのときの大沼公園の巡査の言葉。犯人が逮捕されたという言葉を信じて、函館へ引揚げてしまったこと。返す返すも無念でならない」
あれで捜査を打切らなければ、憲兵隊で逮捕できたという自信が、渋川にはあった。山狩りすべき地点まで見事に的中していたのである。
あのとき捜査を続けていれば、事件はもっと早く解決できた。いやもっと言えば、乙倉がもっと慎重に行動できていれば、旅館で逮捕することも……。
そこまで考えて渋川はやめた。過去を悔やんでも何も生まれない。それよりも、生じてしまった結果に、いかにうまく立ち向かうかが大事であると思った。
かくして昭和20年6月も過ぎ、暑い夏がやって来た。8月、大日本帝国は連合国に無条件降伏し、間もなくして憲兵隊は解体。この世から永久に消え去った。
なお笹岡一等兵は札幌の軍法会議で死刑となり、札幌近くの鈴蘭の名所島松の軍廠舎で処刑された。
応援ありがとうございます!
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