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32話

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関羽が連れて来た荊州武将の顔色は悪く、青ざめていたが、呂布を見ると途端に元気になったかのように表情を変える。呂布はそんな反応を見て、ますます分からなくなる。
関羽が呂布の隣に座らせると、荊州武将は深くお辞儀をして名乗りを上げる。
荊州の劉表が長子、荊州の名家に生まれた蔡一族の長男、劉 中郎将だと。
曹操に挨拶して自己紹介をした荊州武将に、曹操も呂布も驚く。見た目とは裏腹に、物腰柔らかな態度が上に立つ者としての風格を感じさせたからだ。
確かに武人と言うより文官と言う方が説得力があるかもしれない。荊州の武将として戦場を経験はしているだろうが、前線に出ず指揮を取っていたであろう事が伺える。
そう言えば劉備は以前、劉備自身も武将だと言い切っていたが、関羽は武将とは言えないと言っている事を思い出す。荊州武将改め、荊州名家の青年武将は、曹操と呂布を交互に見て緊張していた。
「まずはこちらをご覧下さい」
呂布が取り仕切ると、荊使君こと荊州武将を演台に立たせる。
荊州武将を紹介された曹操は眉を寄せる。
「何か?」
荊武将は、恐る恐る尋ねる。何か、と聞かれれば何かである。呂布は内心で頭を抱える。
関羽と張飛に紹介する為に、呂布が幕屋の中に荊州武将を呼び込んだ時はもっと明るい表情をしていたはずだ。しかし今、目の前にいるのは見る影もなく表情が硬い。
荊州武将が呂布の前に姿を見せた時との差があり過ぎて、呂布は困惑してしまう。何が起きたのかは知らないが、曹操に紹介した時から様子がおかしくなっている。
劉備の紹介の時にはこんな事は起きなかったので、曹操が原因なのだろうか。
とりあえず荊州武将、荊州名家に生まれ育ったのであれば多少なりとも教養はあるだろうと判断し、呂布は荊州武将が曹操に対し無礼な発言をした事を謝罪するようにと指示をする。
本来ならここで、曹操の器の大きさを見せ付ける事が出来るはずだったのだが、その目論見は荊州武将の次の一言によって完全に崩れ去る。
荊州武将はその場で膝をつくと深々と礼をしながら言った。
「私の様な卑賤の者に曹操殿とお会いする機会を与えて頂き、感謝致します。曹操殿の名声は高く耳に届いておりましたが、まさかこれほどの人物とは想像しておりませんでした。どうか、私のような者にも貴人の尊さを知らしめる機会をお与え下されば幸いです。つきましては、私に出来る事でしたらどんな些細な事でもさせていただきます。どうぞ何でもお申し付けください!」
そう言うと荊州武将は、額が地面につく程に平伏する。
「えーと……。君は何を言っているんだい? 私は今日、君のお父さんに会いに来たんだけど」
荊州武将の予想外の言動に曹操は戸惑う。
だが、これが荊州武将にとって当たり前の行動だったらしく、荊州武将は涙ながらに語る。
自分の父は荊州の名士であったが、その父の事を誇れるような自分ではなかったと。父の死後、荊州豪族達は次々と曹操の天下統一に協力し、それを成し遂げた曹操に対する評価も高いものだった。その事に自分は応えるべく必死で頑張ってきたつもりだったが、いつの間にか自分が曹操に近付く事が曹操への評価に繋がる様に思い込むようになっていた。
曹操の評価が上がると言う事は、それだけ父が褒められる事。だが自分が曹操に近づけなければ、その分自分が蔑ろにされている事になるのではないかと考えてしまった。その為曹操に紹介されても自信を失い、曹操の前で失態を演じてしまったと思い込んでいた。だから曹操を前にすると、その期待に応えなければならないと焦りが出てしまい普段通り振る舞えなかったのだと。
つまりは、自意識過剰と言う事なのだが、それでもこの荊武将の振る舞いを見る限り彼の勘違いと言う事でもないのかも知れない。呂布はそう思うと、荊武将があまりにも不甲斐なく感じた。
これではただの厄介者である。
しかも、この場で荊州武将に対して恥をかかされたと思うのは曹操であり、曹操から叱責されるのは呂布である。
荊州武将の誤解が解けないままに宴席が始まろうとしていたが、呂布が曹操に代わって説明する事になった。荊州武将は荊州でも名家に生まれ育ち、荊州の実力者であった蔡一族の一員であり、文武共に秀才であり名族と言って差し支えない人物なので荊州においての発言力も影響力も大きいのは間違い無いと呂布が補足する。
荊州武将は驚きの声を上げ、関羽と張飛も荊州武将が本物であると確信したようで喜んで迎えていた。こうして荊武将は無事に劉備一行の正式な仲間となり、宴席が幕を開ける。
この荊武将は武人であるより文人としての素養が強く、詩や歌の類を好む傾向がある。そして酒豪でもあり、特に珍しい美酒を愛飲しているという。
そんな話を聞き出した呂布が用意させたのは、『三国志』の中でも有名な『赤兎馬』、『神槍』と呼ばれる宝具、そして曹操も手放したと言われる至高の逸品、皇妃が愛用していたとされる盃だ。
他にも高級食材などを用意し、呂布は荊武将と関羽、張飛に料理を食べさせたり酌をしたりして歓待し、荊州武将も恐縮しながらも美味を楽しんでいた。
荊州武将が曹操の天幕から出て行くのを見送った後、呂布と関羽は荊州武将を歓迎しているとばかり思っていたが、実はそうではない事を知らされて唖然としてしまう。
荊州武将が曹操に対し失礼な態度を取った事は、荊州の武将達の間では知れ渡っている。荊州の武将達がその事実を知っている以上、曹操は荊州の武将全てからの印象が悪い。
そんな中、荊州武将と親しく振舞う事は荊武将だけでなく荊州全体の武将達に不信感を与えかねない為、曹操はそれを良しとしなかったのだ。
そこで荊州武将が呂布の元へ身を寄せる事になった時、曹操は呂布に荊州武将の警護を命じた。呂布は荊州武将の護衛として行動する事になり、荊州武将は呂布の配下となったのだった。呂布はこの扱いに憤慨したが、荊武将にとってはそれで良かったらしい。
これで呂布の陣営には荊州の武将が四人もいる事になる。
呂布が荊州武将に贈った物よりも価値のある物を用意したのに、それを無駄にするような荊武将に曹操は苛立ちを覚えているようだが、呂布は別に怒る気にはならなかった。
荊武将の扱い方としては間違っていないからだ。むしろ、荊州武将の方が荊州全体の武将に悪感情を持たれる恐れを考えていないように思える。荊州の名家の出身ならその程度の事を予測出来ていそうなものだが、よほど自惚れが強いのか視野が狭いのか、それとも両方か。
ともかく、曹操が荊州武将に良い思いを抱かない事も、荊武将の為にならない事は分かった。荊州の武将に荊州での評判を聞いて回ると、荊州での評価を聞く限りでは特に悪い噂は無いのだが、曹操に対しては畏怖の念を抱いている事は確認出来たので荊武将に同情的ではあるが、やはり荊武将の問題でもある。
荊州での評価が低いわけでもなく高い訳でも無いのであれば、荊武将個人の問題と言えるのだが、荊武将は自分に対する評価が低過ぎる為に、荊州での自分自身の価値を見出せなくなっている節がある。それ故に、荊武将の評価は呂布軍内での評価で決まる事になる。だが、ここで一つ問題があるとすれば、荊州武将が護衛を必要としていなかった点だろう。
何しろ荊州武将は文官としても優秀らしく、字の通り優秀な頭脳を持っている。
それはつまり文武両道に優れており、荊州では武芸のみならず様々な学問を教えていた事もあり武術にも通じている。また政治に精通する荊州武将もいる。荊州武将は曹操が天下を取る事に最も協力した名家と言う事で、荊州豪族の間でも一目置かれる存在になっているのは呂布の耳にも届いていた。
その荊州武将は、呂布軍の誰一人として歯が立たないどころか触れる事すら出来ない程の実力の持ち主だった。その実力は天下無双と称される関羽をも凌駕しており、その関羽も関羽雲長ではなく荊州将軍と呼んだと言う逸話が残っている程である。
そんな人物である荊武将は見た目こそ細いが筋肉質な体型をしており、『三国志』に登場する名将の一人である夏侯惇に似ていると言われていて、実際に武器を持たせれば一騎当千とも言える働きが出来る。
そんな荊武将が、護衛など必要無いと言った時には関羽は呆れていたが、荊州武将と行動を共にして関羽はようやく荊武将の言っている事が真実だと知った様だ。
荊武将が呂布と共にいる理由は二つあり、呂布を警戒するのは当然だがそれ以上に関羽が信頼しているからという理由もある。
荊州武将にとって、関羽が呂布を気に入っている事は知っている。だが、それがどれほどの事なのか理解出来なかった。
呂布は関羽に好かれている自覚はあったが、まさか荊州武将も嫉妬されるほどの執着だとは思ってなかった為、呂布は荊州武将が呂布と関羽の仲に割り込もうとしているのではないかと疑っていたくらいだ。荊州武将はその疑いに答えてくれたのだとも言えた。
荊武将は曹操に対して敬意を持って接していた。
呂布に対しても同じく、敬意を払って接する様に言われていたので荊武将も従っていたが、曹操が呂布と荊州武将を一緒にしておくべきではないと判断したため、荊武将は関羽と呂布が一緒になって荊州武将を警戒していた事を知らなかった。
関羽と呂布は荊州武将が何か妙な動きを見せたら、即刻斬るつもりでいたのだ。荊州武将は曹操が呂布を高く評価していた事から、劉備の元にいても曹操に見放されて呂布の元に行く事を期待されていた。
ところが荊武将が劉備と荊州武将に対して無礼な態度を取ったために、荊武将は劉備からも荊州武将の側にいてはならないと言われる事になった。その荊州武将も荊州武将なりに劉備の役に立とうとしていただけに、自分の考えが正しかったと思い込んでいる。荊州武将は曹操への忠誠心が高く、その分劉備や荊州武将に対する反感が強まる。
劉備や荊州武将も荊州武将に思うところはあったかもしれないが、だからと言って荊州武将を害するつもりは無かったので荊州武将を責める事はしない。劉備の側でも荊州武将の気持ちを推し量りはしたはずだが、それでも荊州武将は受け入れられない。
結果、荊州武将だけが仲間外れのような状態になってしまったのが荊武将の不幸であり、呂布達が荊州武将の警護を行う事になった原因でもあった。
ただでさえ荊武将と荊武将の護衛達は不仲だというのに、荊州武将を守るように呂布達が配置されたせいで更に荊武将の心労を増やしてしまった。そのおかげで呂布達の警護の負担が増え、荊州武将達と距離を置くようになっていたので荊州の武将達との接点が無かった。
荊武将とその部下達、呂布達、そして劉備の思惑が上手く噛み合わず、荊武将の護衛が荊武将から離れていったのだ。荊武将自身も護衛達と一緒に行動する事も無くなり、荊武将の護衛は四人だけになっていた。荊武将自身があまり人を寄せ付けないという事もあるが、荊武将の護衛達もまた荊武将とは親しくしていない。
その為、荊武将の周囲は荊武将の部下三人だけになってしまい、荊州武将が襲われた時もそれを止める者がいなかった。しかも荊州武将の護衛を務めていた荊州武将の護衛達ですら、荊武将の命令に従って護衛から外れてしまっていたので荊武将が単独で守るしかなく、その結果命を落とす羽目になった。
これが荊武将の不運の結末だった。呂布は荊武将に付き添って、その死に目に立ち会った。
荊武将は自分の死後について、特に遺言らしいものを残していなかったらしく、葬儀も簡素なものだった。荊武将の遺体と遺族には十分な謝礼を渡して荊州に送り届けたが、荊武将の亡骸には手を加えずに荼毘に付す事にした。荊武将の妻の親族に荊州の武将がいた事もあり、荊武将の葬儀の後に荊州の武将を荊州に送って埋葬させる事にした。荊州の武将の事は荊武将に任せるべきだろう。
荊武将の遺体を荊州に送った後、呂布と荊州武将の間に奇妙な関係が生まれた。
荊州武将との距離感はこれまでと変わらずに、護衛としての態度を取り続けていたのだが、荊州武将の方はこれまでの荊武将に対する態度を改め、呂布にも敬意を示すようになった。
「どうしました?」
荊州武将の屋敷の一室で、呂布は荊武将に尋ねる。
荊州武将は先程まで荊州豪族達に荊州の情勢を訊かれていたのだが、荊州武将はその答えとして呂布と荊武将を豪族に紹介してくれた。その際、豪族に言われたそうだ。
『荊州の名士、荊州将軍にこれほどの信頼を得ているのですからお強いのでしょう。もしよろしければこの者と戦ってみてはいかがですか?』
そう言われて、荊州武将の連れてきた武将と戦ったのだが、結果は呂布の一人勝ちである。
荊武将は強かった。関羽ほどではないものの、それに匹敵する実力を持っていると思われたが実戦経験が少ないのか技術が拙く動きも荒削りだったので簡単に勝ってしまった。荊武将の強さを呂布も認めたらしく、荊武将は荊州武将から一目置かれる存在となった。
その後、荊武将が呂布に話しかける機会が多くなったのも、荊武将が呂布に興味を持って近づいてきたからだと思っていた。
ところが、ある日の事である。
「実は……折り入ってお願いしたい事があります」
荊州武将は言い辛そうな口調だったが、真っ直ぐな眼差しを呂布に向けていた。
荊武将は荊州では一介の武人でしかないが、荊州を治めている劉備の元で働いている事と荊州の実力者の一族と言う事で周囲から一目置かれる存在だ。また人柄もよく荊州の民衆からは人気があるので、荊州の有力者の集まりなどでは荊武将が中心になっている場合すらある。荊州武将にとって、荊州と言う地に住む者は家族同然であり自分の子供のような存在である。荊武将が荊州の為に何か行動を起こすとすれば、それは荊州の為でもあると同時に荊武将自身のためになるのは間違いない。荊武将にとって、荊州の者達の幸福こそが自らの幸福と言えるくらいなのだから。
そんな荊武将は劉備の下では一兵卒に過ぎないが、関羽や張飛と肩を並べる名将の一人である。荊武将はその才覚と努力で荊武将の身分と立場を手に入れた。荊州武将にとって、荊武将は他の誰よりも尊敬出来る人物であり、荊武将にとっても荊州武将は自分を尊敬する数少ない人物の一人で、二人はお互いがかけがえのない友人となっていた。
荊武将の頼みとあっては断れない。荊武将は自分を頼ってくれているのだ。それに、荊州武将が自分に頼むなどという事をしなくても、自分は頼まれればすぐに荊武将の元へ駆けつけただろう。
荊州武将からの相談を受け、その翌日、荊武将は関羽、関羽軍の武将や文官と共に劉備の元に報告に向かった。荊武将は曹操の客分である呂布の元にいたにも関わらず、曹操ではなく劉備に荊州の武将を鍛えてもらいたい、と言ってきたのだ。荊州の武将が曹操に見放されたと思っている荊州の者からすれば、荊武将の言葉は皮肉以外の何物でもないが、劉備はそれを笑って受け止めたらしい。
荊武将の報告を聞いた劉備は荊武将の提案を受け入れ、荊州の武将を劉備軍の新入りとして扱う事になった。荊州の武将は呂布より若い武将が多かったが、年齢や経験はさほど問題にならないと判断された。むしろ重要なのはこの世界に来て間もないので右も左も分からない状態であるという点であり、それが劉備の判断で採用されたらしい。劉備としても劉備に敵対している勢力を撃退するためにも、少しでも戦力増強を図る必要もあった。
呂布が荊州の武将達と直接接する機会はほとんど無かったが、それでも劉備軍と荊州武将のやりとりを見ていて分かった事がある。
荊州の武将達は、少なくとも荊州の武将の水準としては優秀である。関羽、関羽の軍の武将、呂布の率いる部隊と比べると雲泥の差があった。
荊武将と荊州武将の間には友情があるらしく、荊武将の進言もあって荊州の武将は呂布の率いている部隊に編入される事になり、呂布の部隊は急造ではあるが四千を超える大兵力になった。荊州からの援軍要請を受けて徐州軍が出陣する準備を始めた頃、呂布達のところへ陳宮がやって来た。
「いよいよ出番ですぞ、呂布将軍」
「どういう意味ですか?」
「今のままだと呂布将軍、あなたは戦場に出る事は出来ませんよ?」
「何故ですか? 四千人もいるんですよ。俺なんかの出る幕は無いと思いますけど?」
「それは本気で言っているのですか?」
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