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第二章 クリスタ編

116.転移の過程 柏木の事情1

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「アンタ、ホントにこれでいいの?」


隣の部屋から出てきたユーインは開口一番にそう言うと、柏木に心配そうな視線を向けてきた。


「そこ防音だって言ってませんでしたっけ?」

「ちゃんと閉めてれば防音よ。」


暗に盗み聞きしていたということを堂々と知らされた柏木は苦笑いするしかない。


「さっきも彼らに言いましたけど、それしか選択肢がない以上、どんな内容であったにしろ従うしかないですよね。」

「内容ねぇ……。」


ユーインはテーブルの上に置かれたままになっている書状を勝手に広げて読み出した。

柏木はそれを咎める事なく、どこか楽しそうな表情で眺めている。


「クロフォードで働く気があるなら、クリスタで執事に必要な技能を全て取得してから、ファランベルクに来いって書いてあるわよ。期限は半年。
拒否してもいいけど、その場合は身の安全は保証出来ないらしいわ。」


要はたったの半年間でアスランやカインが三年間クリスタの執事養成学校で身に付けてきたスキルを取得し、尚且つ即戦力になれる人材だということを証明出来なければその存在を無かったことにするということだ。

レイの秘密を知っている人間を野放しに出来ない以上、クロフォードに仕える人間として迎え入れるか、消されるか、どちらかの選択しかないだろうと予測はしていたが、まさか本当にそういうことが書かれていたとは。

柏木は本当に気の合いそうな未だ見ぬ自分の新しいボスに思いを馳せる。

今は不安よりも新しい環境、新しい仕事でどれだけ自分を高めることが出来るかという期待に胸が踊る。

こんな気持ちは新入社員の時以来だ。


「まあ、やるしかないでしょうね。」

「アンタのその性格気に入ってるけど、正直心配よ。ホントに大丈夫なの? まあアタシもアンタには返しきれない恩があるから出来ることは何でも協力するつもりだけど。」

「ありがとう存じます。私のほうこそユーイン様には一方ならぬ御交誼を賜り、深く感謝申し上げます。」


柏木が畏まった態度でそう述べると。


「あのコ達もまさかこんなに流暢なファランベルク語を喋るアンタが、文字はまださっぱり読めないとは思わないでしょうねぇ。」


ユーインは呆れたような表情で柏木と書状を交互に見ている。


「この半年間はとにかく聞ける、話せる、で手一杯だったものですから、読み書きは後回しだったんですよ。」

「それもそうねぇ。まあ、これから漸くクリスタも少し落ち着くでしょうから、ここでみっちり勉強してこれからもアイツら若造に負けないよう頑張ってちょうだい。
クリスタの意地にかけて口の固い優秀な教師を用意してあげるから、アンタは立派な執事になってクロフォード侯爵に認められる男になりなさい。」

「ありがとうございます。なんだかんだ言って本当にユーイン様には世話になりっぱなしですね。」

「だからそれはお互い様だって言ってるでしょ。あの時アンタがいてくれなかったら、今頃このクリスタ自体がどうなってたかわからないもの。 これからまだファランベルクとの話し合いもあるけれど、とりあえずガゼルやスザークが介入してくる可能性を潰す目処はついたわ。 これもアンタとあの子、レイの無茶のお蔭よ。
──これでやっとキースも報われる。」


心から弟を悼むユーインの言葉に、かつて愛する人を亡くした経験を持つ柏木はただ静かにくうを見つめた。



◇◆◇◆



柏木がこの世界に突然転移してきたのは約半年前。

最愛の婚約者を亡くした一週間後の事だった。

自宅についてすぐ眩暈を覚えて目を閉じた直後。
軽い浮遊感を感じたところまでは覚えている。


やがて眩暈が治まり目を開けることが出来た柏木は──。

──何故か見知らぬ場所にいた。


360度見渡す限り鬱蒼と生い茂った木々に囲まれ、ろくに太陽の光も射し込まないこの場所は、正しくテレビなどで見たことのある森そのものといった感じの場所だった。


もしかして玄関先で倒れた後、強盗にでも襲われ、この森に放置されたのだろうか。

そう考え、慌てて上着の内ポケットを探ってみるが、入れておいた財布やスマートフォンは無事だった。

普段持ち歩いている鞄が足元に落ちている事に気付き、中身を確認してみても何も変化は見られない。


(強盗じゃないってことは個人的な怨恨か?)


個人的に柏木を良く思っていない人間は確かにいるだろうが、こんな犯罪じみた真似をされるほど深い恨みを買っているとは思わなかった。

腕時計で時刻を確認すると、帰宅した時間からそれほど時間が経っていない事がわかり、首を傾げる。

こんな短時間で気を失った大人の男をこんな森の奥深くまで運ぶ手段があるとは考え難い。

しかし現実にこのようなことが起こっている今、そんなことを考えるより、一刻も早く帰宅することが先決だ。

そう考えを切り替えると、とりあえず自分が今いる場所を調べ、迎えに来てくれそうな人間に連絡をとるため、スマートフォンの電源を入れた。

しかし、通信サービスが遮断されている状態であることに気付き、自然とため息が漏れる。


「この森から出ないことには話にならないってことか……。」


そう呟いてから鞄を手に歩き出した時。

湿った腐葉土を踏む自分の足音の他に、獣の息遣いのようなものが聞こえた気がして足をとめた。


(まさか冬眠から目覚めた熊とか……?)


今は三月。そろそろそういう時期かもしれない。

嫌な想像に背中に冷たいものが伝う。


(そういえば獣は音に驚いて逃げていくんだったな。)


柏木は地面に落ちていた枝を拾うと、木の幹や茂みを叩いてわざと音をたてながら、いつか辿り着くであろう森の出口を目指して再び歩き出した。


すると。

ガサガサという大きな音と共に後方の茂みが大きく揺れ、黒い影が飛び出してくる。

そして、反射的に逃げを打とうとした柏木の背後で、黒い影が何かを叫んだ。


「え?」


驚いて足を止めると、そこには水色の髪に深緑色の瞳の傷だらけの男が立っており、必死の形相で柏木に何かを訴えている。

顔立ちだけみれば欧米人。
着ているものは生成りのシャツに黒いズボン、焦げ茶色のロングブーツ。

奇抜な髪の色とその服装を見た途端。
柏木は今ここで何かの撮影が行われており、それを邪魔した人間として注意を受けているのだと理解した。

ここがどこかもわからず不安になっていたところに自分以外の存在があった事にホッとする。


ところが。

近付いて行くにつれ、柏木はその男が口にしている言葉が何一つ理解することができないことに気付き青くなる。

英語でもフランス語でもドイツ語でもラテン語でもロシア語でもなく。況してや日本語でもない。

語学が得意だと自負する柏木が全く聞いたことのない言語を喋る人間に、さすがに警戒せずにはいられなかった。


もし撮影でここを訪れているのなら、誰かしら日本語を話せるスタッフがいるだろうし、最悪でも英語くらいは話せる人間がいるだろうと辺りを見回すが、その男と自分以外の人間の姿はどこにも見当たらない。


(どういうことだ?)


訝しんだ柏木が足を止めると。

水色の髪の男は漸く自分の話す言葉が通じていないことに気付いたのか、絶望的な表情をした。


そして。

男は一気に顔色を失うと、崩れ落ちるようにその場に倒れ込む。

それを放ってはおけないと判断した柏木は、言葉の通じない謎の男に慌てて駆け寄ったのだった。
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