強欲なる花嫁は総てを諦めない

浦霧らち

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55.凛然と疼き

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 馬を木立の陰に繋ぎ、二人は森へ足を踏み入れた。随行の騎士たちは外周警戒のため別行動だ。
 踏み固められた道はすぐに途切れ、雪をかぶった落ち葉と苔が足元に広がる。
 森の外のざわめきは完全に消えた。代わりに聞こえるのは、風が枝を擦る音と、遠くで雪が落ちる微かな気配だけだった。

「……静かですね」

 声は自然と低くなる。森の中では、言葉さえ余計に響く気がした。

「春の伐採予定地とのことですが、木々は順調そうですね」
「ああ。今のところ、特に異常はない」

 ローガンは歩きながら視線を巡らせている。
 地面の起伏、枝の折れ方、獣道の痕跡。何気ない動作に見えて、そのすべてが観察の延長だった。
 エルンストは半歩遅れて背を追う。歩調は無理のない速度に保たれている。──合わせてくれているのだ。

「足元、滑るぞ」

 短く告げられ、ローガンが立ち止まった。その直後、エルンストの足が浅く雪を踏み抜く。

「……っ」

 転びかけた瞬間、肘を掴まれた。反射的な動きに身体がびくりと跳ねる。

「大丈夫か」
「はい……ありがとうございます」

 掴まれた肘はすぐに離されない。けれど力は過剰ではなく、支えるだけの距離だった。

「この森は、見た目より足場が不安定だ」
「はい」
「無理に前を見なくていい。俺の踏んだ跡を辿れ」

 そう言って、ローガンは半歩だけ速度を落とした。
 結果として、二人の距離は自然と縮まる。
 踏み跡を意識して歩くと、不思議と余計な思考が減っていく。
 次の一歩。次の呼吸。雪を踏む音が一定のリズムで重なり、まるで規則正しい鼓動のように耳に馴染んだ。

「……落ち着いてきました」

 ぽつりと漏らすと、ローガンは小さく頷いた。

「それならよかった」

 それきり、言葉は交わされない。
 足音だけが雪の中に吸い込まれていく。
 ローガンは普段通り、いや、普段よりさらに落ち着いている。
 その理由を、エルンストはなんとなく察していた。
 ────彼にとっては、この森が〝内側〟なのだ。
 雪に覆われた大地が、静かな足音だけで語りかける。
 その中に自分がいるのが、まだ不思議だった。
 木々の隙間から差し込む陽光が、ちらちらと視界を明滅させる。
 ふと視線を上げれば、ローガンの横顔。
 髪が僅かに乱れ、額にかかる前髪の影。厳しい造形の中で、目のあたりにだけ柔らかさが滲んでいる。
 ────きれいだな。
 そう思った瞬間、胸の奥に疼くような熱が生まれた。
 言葉が喉につかえ、飲み込む。前を向け、と自分に命じながら。

「この辺りは伐採後に平坦になりそうです。木の種類も均一ですし、造成工事も容易でしょう」
「利用目的はまだ決まっていないが、いくつか候補になりそうだな」
「場所も良いですし、物流用の街道を造るのも良いかもしれません。いずれにせよ植樹も併せて進めます。長期的に運用できるようになるはずです」
「そうだな。まずは春に、どれだけ安全に伐れるかだな」
「ええ。……あ、そうだ。あとで測量隊を連れてきましょう。ロープ測量で高低差を調べたいので。あとは水源の確保の目途も──それから」

 ──はっと言葉を切る。また仕事の話に白熱してしまった。
 口が勝手に動く。今はそれが、ひどく忌々しい。
 恐る恐るローガンの様子を窺うと、視線が絡んだ。

「構わない。いつも君の考えに助けられている。何でも言ってくれ」
「……でも」

 エルンストはローガンの袖を掴んだ。

「今は、仕事の話──やめてもいいですか?」

 見上げた喉が、なぜかぐぐっと鳴った。ローガンが誤魔化すように咳払いをする。

「強制はしていない。好きにすると良い」

 言葉が落ちた。森はひどく静かだ。
 ローガン以外の気配がない。
 今なら、どんなわがままも許されるような錯覚がする。

「ローガン様、お願いがあります」
「なんだ」
「手を、繋いでくれませんか」

 こんなわがまま、聞く必要はないのに。
 ローガンは黙って手を差し出してくれた。

「これでいいか」
「……はい」

 指が絡まり、エルンストの手がすっぽり包まれる。
 その大きさに、温かさに、思わず目を閉じた。
 ────ただ隣にいるだけでいいはずなのに。
 触れた瞬間、欲が増していく。距離が、さらに近くなる。
 一度触れてしまったら、際限がない。
 それでもいい、と心が言う。
 怖かった。自分の中の〝よくないもの〟が、頭をもたげてしまうのが。
 少し歩いてから、エルンストは手を離した。
 無意識の行動だったが、どこか冷静な部分が、それを恐れていたのだと思う。

「──ありがとうございました」

 ローガンは何も言わず、歩幅を合わせてくれる。
 優しさが嬉しい。けれど、甘えてはいけないと、自分で自分を縛ろうとしてしまう。
 ローガンの側にいるのが苦しいわけではない。この胸の痛みは、己の欲深さが生むものだ。
 その時、雪を踏みしめる音が変わった。
 足元が少しずつ緩み、湿り気を帯びる。地面から蒸気のようなものが薄く立ち昇り、霧がかかったように視界が霞む。

「ここの地下は湧水が多い。夏はぬかるむが、今は凍っているから歩きやすい」

 ローガンは足を止めずに進む。
 エルンストは後ろを追いながら目を凝らした。
 木々が濃くなり、陽光は枝葉に遮られる。森の奥へ向かうにつれ、音が少しずつ変わっていく。風の唸りも、雪の沈む音も、密度が増して感じられた。
 歩きながら、ローガンがふと立ち止まる。
 雪の中に残った獣の足跡。

「……これは、鹿か」

 指でなぞると、楕円形の蹄が四つ、浅く刻まれている。

「群れではない。若い個体か……近いな」

 声量は変わらない。だが、空気が変わった。
 それまで森に溶けていたローガンが、一瞬で狩る側の存在に切り替わるのがわかる。
 背筋が伸び、視線が鋭くなる。無駄な動きが消え、全身が目的へ収束していく。
 エルンストは黙って、その背中を見つめた。
 ────きれい。
 殺意の匂いすら、凛としている。
 惹かれてしまう自分が、理解できない。
 ローガンは音もなく歩を進める。エルンストはほんの少し遅れて続いた。
 数歩進むごとに、森の密度が変わる。枝の折れ方、雪の削れ方、苔の剥がれ。ローガンは一度も地図を見ない。けれど迷わない。
 やがて遠くで、低く、湿った息遣いが聞こえた。
 その瞬間、ローガンが振り返る。

「動くな。ここで待っていろ」

 声は静かだが、命令だった。エルンストは無言で頷く。
 ローガンは雪を踏む音すら殺しながら、風下へ回り込む。
 こういう時は正面からいかないのか、とエルンストは感心した。
 森の地形を、身体で把握している動きだ。
 一頭の牡鹿が姿を現したのは、ほんの数秒後だった。
 雪を踏み荒らし、太い角を揺らしながら歩く影。体躯は大きい。油断すれば人を簡単に弾き飛ばす。
 ────あれを、獲るのか。
 だが、ローガンは怖れていない。
 距離を測り、踏み込みの角度を決め、一歩で届く位置まで、黙って詰める。
 そして、一閃。
 無駄な力の入らない、静かな動きだった。剣は鳴らず、雪も大きく舞わない。
 牡鹿の動きが止まり、ゆっくり崩れ落ちる。
 森が、再び静寂を取り戻す。
 ローガンは剣を下ろし、息を整えた。
 それから血を払って鞘に納め、振り返ってエルンストを見る。

「怪我はないか」
「はい」

 エルンストは気づく。柄を握っていた指が、根元まで血で濡れている。
 なのにローガンの表情は凪いでいた。剣を振るうことも、獲物を狩ることも、ただの日常であるかのように。
 豪奢な礼服を纏う貴族ではない。派手な政治劇を演じる策謀家でもない。
 この人は、大地に根ざした戦士なのだ。

「……すごいです」

 心からの感嘆だった。
 ローガンは少しだけ目を見開き、それから照れたように視線を逸らす。

「……狩りは、仕事みたいなものだ」
「でも、とても……きれいでした」
「君が見ていると、少し……やりにくいな」

 その言葉に、心臓が跳ねた。ローガンの首筋が赤いのに気づいてしまう。
 英雄が、戦場の狼が、自分の視線を意識している。
 理屈では説明できない熱が、胸の奥に残った。
 ローガンは獲物の処理に取り掛かりながら言う。

「少し進めば、焚き火にいい場所がある」
「……はい」

 返事をしながら、エルンストは気づいていた。自分の手が、微かに震えている。
 恐怖ではない。興奮でもない。
 ただ、どうしようもなく、心を持っていかれている。
 その自覚だけが、静かな森の中で、確かに芽吹いていた。
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