強欲なる花嫁は総てを諦めない

浦霧らち

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69. 祝鐘と始業


 暖かい。
 それが、目覚めの最初の感覚だった。
 昨夜の暖炉はとうに熾き火も尽きているはずなのに、背を包む温もりは柔らかく、逃げ場を与えない。
 ゆっくりと瞼を開く。視界に映るのは、銀灰色の髪。
 ローガンの胸に頬を預けて眠っていたらしい。太く頼もしい腕が、当然のように自分を囲っている。
 ────また、こんなに近くで。
 自分でもおかしいと思うほど、胸がきゅうと甘く縮んだ。
 肌に触れているのは、細く柔らかな毛の感触。
 またローガンの尾が、無意識にこちらへ流れ込んできている。まるで、眠りの中で自分を探して寄り添ってきたようだった。

「……ん……」

 胸が上下するたび、頬も一緒に揺れる。そっと身を起こそうとした、その瞬間。
 腕に力がこもり、さらに深く抱き寄せられた。
 
「……逃げるな」
「に、逃げてません。目が覚めただけで……」
「まだ、いろ……」

 獣が獲物を囲い込むような声音に、思わず笑ってしまう。
 今日で冬籠りの休暇は終わるというのに。
 それでも、嫌ではない。むしろ、このまま時間が止まればいいとさえ思ってしまう自分がいる。
 尾に指を滑らせると、寝ているはずの眉がぴくりと動いた。

「……くすぐったい」
「起きてるんじゃないですか」
「起きている。だが、起きたくない」

 銀灰の瞳がゆっくりと開く。その視線は、迷いなくただ一人を捕らえる。

「エルンスト」

 名前を呼ばれるだけで、胸の奥が解ける。

「新年の朝だ。君と迎えられて、嬉しい」

 静かな声なのに、深く熱い。エルンストは微笑んだ。
 大きな手が頬に触れ、親指でそっと肌をなぞる。触れられている場所だけが熱を帯びて、動けなくなる。

「今日、祈願祭がありますね」
「ああ。領民の前に立つ。……負担ではないか?」

 その問いには、申し訳なさが滲んでいる。

「今日まで身体に負担を強いた張本人の言うことではありませんね」

 ぴたりと止まる。

「……返す言葉がない」
「冗談です。少し疲れていますけど、大丈夫ですよ」

 その誠実な顔が可笑しくて、エルンストはくすりと笑う。

「ローガン様の妻ですから。きちんと務めます」

 ローガンはしばらく黙ったあと、ふっと息を吐き、頬を撫でた手をそのまま後頭部に回し、軽く引き寄せた。額に、鼻先に、そして唇に。軽く触れるだけのキスを、何度も落とす。
 祝福のような、控えめで、けれど柔らかい愛情がそこに宿っている。

「君と迎えた新年が、今までで一番美しい」

 それは、心からの本音だとわかる声だった。
 エルンストはローガンの胸に顔を埋める。心臓の音が聞こえる。自分と同じように、少し早鐘を打っている。

「……私も、こんな風に目覚める朝があるなんて、想像していませんでした」
「これからは毎日だ」
「それはちょっと……贅沢すぎます」

 冗談めかして言うと、ローガンが小さく笑った。その吐息が耳にかかり、背筋がゾクリと震える。

「嫌か?」
「いえ、嬉しいです」

 そう答えた瞬間、尾がぱたりと揺れた。

「あなたが大好きですから」

 その一言で、ローガンの耳がぴんと立つ。エルンストは、その豊かな毛並みに指を通す。

「新しい年も、よろしくお願いします」
「ああ。ずっと、傍にいてくれ」

 誓いのような言葉とともに、二人はもう一度口づけを交わした。
 穏やかで、静かで、どこまでも優しい新年の朝だった。

 鐘が鳴る。
 雪の止んだ空に、澄んだ音が響き渡った。
 城前広場には領民が集い、色とりどりの祈祷札が風に揺れる。香木の煙が白く上り、冬の青空へ溶けていく。
 ローガンとエルンストが並んで姿を現すと、ざわめきが波紋のように広がった。
 視線が集まる。
 それは、公爵へ向けられる敬意だけではない。その隣に立つ異国の公爵夫人へも。

「公爵夫人……! 並んでおられる……!」
「閣下が人前でこれほど穏やかな顔をされるとは……!」

 エルンストは頬が熱くなるのを必死に抑えながら、祭壇に進んだ。
 神官が季節の祝詞を唱え、領民たちが次々と祈祷札を奉納していく。
 そして最後に、公爵夫妻へ向けて神官が言祝ぎを告げた。

「ヴァルトシェイドに今年も実り多く、戦なき冬と、安寧の春が訪れますように」

 戦なき冬。
 その言葉に、エルンストは無意識にローガンを見上げる。
 横顔は静かだった。だがその奥に宿るものを、今はもう知っている。
 ローガンは守るものが多い。そして自分もまた。
 並び立つ意味が、胸の内に確かに根を張った。
 
 休暇明け、年始の雰囲気に包まれた城内は心なしか和やかに思えた。
 エルンストは深く息を吸った。
 甘い蜜月の日々はひとまず終了だ。仕事の勘を取り戻さなければならない。
 朝食の席でローガンが名残惜しそうにしていたのを思い出し、頬の内側にそっと力が入った。
 彼の視線は明らかに「まだ休んでもいい」と言っていた。けれど、エルンストは微笑みでそれを拒んだ。

「休暇は、もう十分です。今日から仕事に戻ります」

 言い切った時のローガンの微妙な苦笑。名残惜しさはエルンストにもある。

「……甘やかされすぎた」

 独り言ちつつ、執務室の扉を押し開ける。
 久しぶりの空気がふわりと鼻を掠め、胸に懐かしい緊張感が蘇った。

「奥様、お戻りになりましたか」

 グラント──補給隊長である猪獣人が、山のような書類の束を抱えたまま顔を上げた。
 彼の荒々しい風貌とは裏腹に、瞳の奥には安堵が滲んでいる。

「ああ、みんなが細かな仕事を引き受けてくれたと聞いている。ありがとう、おかげでゆっくりできたよ」
「いえ、我々も勉強になりました」

 グラントは深く頭を下げ、エルンストの机に山積みになった文書をひとつずつ整理しながら報告を始めた。
 雪解け後の復旧計画、物資管理、家畜の餌の需要、農地の排水状況──エルンストはそれをひとつひとつ聞き取り、的確な判断を下していく。
 その後も執務室には続々と人員が出入りし、書類が運び込まれた。エルンストは休暇で鈍った頭を徐々に覚醒させていく。ペンの走る音、時折届く兵たちの報告。
 どれもが、エルンストの心を満たしていった。
 かつては、〝役に立つ〟ことでしか存在できないと思っていた。
 けれど、今は違う。
 それ以外にも、自分には価値がある──それを、ローガンが教えてくれた。

 書類の山を整理し終え、午後の最初の会議が始まった。
 エルンストの正面に座るのは、第一騎士団隊長エルマー。
 大きな黒い犬耳、精悍な顔立ち。武骨な印象ながら、その瞳には知性と誠実さが宿っている。

「お久しぶりです、奥方様。ご健勝で何より」
「ありがとう、エルマー隊長。休暇中、何か不備はあったか」
「問題はありませんでした。奥方様が不在だった分、我々で円滑に進めましたので」

 軽い挨拶の中に、少しだけ含みがあった。
 相変わらず、エルマーからはあまり信頼を得られていないと感じる。が、気にはならない。彼には彼の仕事がある。エルンストにも、すべきことがあるのだ。

「吹雪で交易路が封鎖されている間、城下街の物資はどうだった?」
「問題ありません。積雪前の蓄えは十分でした」
「そうか。ありがとう。この調子で、備蓄の状況と巡回の記録を見せてもらおう」

 エルマーは無言で資料を差し出した。その手つきは丁寧でありながら、どこか用心深い。

「最近の報告書には、東部農村での井戸の凍結状況がいくつか挙がっているな。住民への暖房用燃料の供給は……」
「既に対策済みです。現場判断ですが、現状維持で問題ないと判断しました」
「助かるよ。他に懸念事項は……」
「少し前に、騎士団の食糧配分を増やしていますが、些か心許ない状況です」
「ふむ……、増やしても問題ないと思ったんだが、予想より消費量が多かったか」
「街道の護衛や伐採地の見回り、警備が増えましたから」
「そうか、騎士団には負担を強いてしまってすまない。輸入品の依存は大きな弱点だな」

 流通が増えた分、輸送隊への護衛強化を余儀なくされ、自ずと騎士団への負担が増える。

「やはり食糧自給率を上げるのが目下の課題だな」
「手立てがあるのですか」
「模索中だ。今は、分配の計算をし直して、割り当てを調整しよう」

 エルマーは頷いた。
 そこからは粛々と作業が進められた。エルマーも淡々と答えるだけで、突っかかるような態度は見せない。表面上は平穏だが、まだ隔たりは存在する。
 けれどエルンストは焦っていない。
 会議が終わった後、エルマーは何も言わずに退出した。
 エルンストはふうと息を吐く。椅子の背に体を預けた。

「やっぱり……まだ警戒されてる」

 けれど、エルマーのあの態度は嫌いではなかった。
 信頼されていないと感じる分、努力を認められる可能性がある。逆に言えば、認められた時に得られる信用は大きいのではないだろうか。
 ────いずれ、仕事仲間として協力関係を築ければいいな。
 エルンストは頬杖をついて遠くを眺めた。
 エルマーとのやり取り、グラントたちの働きぶり。書類仕事も、領地運営も、順調だと言える。
 書類に押す印章。自分の名前を書き記す時。ほんの一瞬だけ、ふわりと思い出す。
 彼の低く穏やかな声。触れる手の厚み。甘く強い眼差し。夜の帳のように纏わりつく、あの熱。
 執務の合間に、何度、彼の姿を思い描いただろう。
 恋に蝕まれたくないと思っていた自分が、こんなにも誰かに焦がれる日が来ようとは。
 それでも、悪くない感覚だ、とエルンストは思った。
 誰かを好きでいると、力が湧いてくるものだ。
 今夜は夕食の後に、また彼の部屋に行こうか。ローガンも、きっとそれを待っているはずだから。
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