神様なんていない

浅倉あける

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第三章 岡埜谷俊一郎

15 前門の虎を狩れ

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 よく漫画とかアニメとかでは、卒業式の時に桜の花が背景として散りばめられていることがあるけれど、現実はちょっとずれている。
 まあ、住んでいる地域によっても変わってくるだろうけれど、少なくともおれたちの通っている朝凪あさなぎ高校の桜前線だけに視点を絞れば、三月上旬の桜の木はまだ春の気配もなく殺風景なままだ。実際に開花する時期は四月の上旬から中旬。つまり、だいたい始業式のタイミングと同じくらい。つまり今日だ。
 満開になった桜の花を窓越しに眺めていれば、新しく振り分けられた担任の先生が教室に入ってくる。簡単な挨拶と自己紹介。進級後お約束のような三年生になった自覚を持って云々。
 そのあとに、一言挨拶を促す出席番号順の点呼が始まる。
 朝凪高校の出席番号は五十音順だ。つまり必然的に、よく知っているあ行の奴の名前が最初に呼ばれることになる。

「じゃあまず、我妻あがつま伸也しんや
「はい」

 我妻あがつまが立ち上がって、いつものにこやかな笑みで教室を見渡した。
 よく仲の良いやつはクラスを離されるって話があるけど、どういう因果か今年のおれのクラスにその法則は適用されていないようだった。正直、当たりだな、と思った。我妻もいるし、広瀬ひろせ松井田まついだもいる。そんなことあるんだ、と思った反面、二年の時はこの四人の中ではおれだけが別のクラスだったから、まあ、うん、今度から連絡の伝達がしやすいなって思う。

「井田幸人」「飯塚蓮司」「江連佑馬」

 担任の低い声が次々と新しいクラスメイトたちの名前を読み上げていく。おれの出番はすぐそこだった。

岡埜谷おかのや俊一郎しゅんいちろう
「はい」

 列の一番前に座っている我妻がくるりと振り向いて、立ち上がったおれのことをみた。あーあ、すっごい嬉しそうなのが顔でばればれ。おそらくこの顔は、松井田もしていると予測する。
 広瀬はどうだろう。ちらり、と視線を向ければ、ふいにばちりとおれは広瀬と目が合った。
 我妻や予測の松井田と違って、嬉しそうな顔をしているわけではなかった。けれど、嫌そうな顔もしていない。ただフラットにおれの言葉を待つように。広瀬はまっすぐこちらを見つめていた。
 その姿を見た瞬間、おれは喉元から溢れそうになった言葉を、あわてて飲み下した。
 松井田とファーストフード店で話した日から、広瀬に対して言いたい言葉があった。
 でも。

(……まだ、今じゃない)

 広瀬に伝える言葉は、まだ。


 三年生になっても、一年生が入ってこない最初の一週間は特に何が変わるわけでもなかった。そもそも、大会の次の日以外はだいたい部活でみんなと顔を合わせていたわけだし。まあ大会の次の日もおれは我妻や松井田と顔を合わせてたわけだけど。
 ああでも、朝凪高校陸上部には、大会前の必勝祈願の他にもうひとつ伝統行事のようなものがある。それは、新年度最初の部活動の始まりを知らせる、ピストルの音のようなものだ。
 グラウンドに並んだ、三年生になった同級生たち。それから、まだ見ぬ後輩を待つちょっとだけ顔の大人びた新二年生たち。それらを前にして立った顧問が声をあげた。

「じゃあ、一人ずつ今年度の抱負を言ってけー」

 そう、抱負を皆の前で発表する。それもまた、うちの部活動の習わしだ。

「先生、おふざけはありですか」
「三人までなー」

 三人までいいんだ。

「じゃあ、最初は部長から。頼んだぞ」

 うわ、今の流れだと、その頼んだぞがふざけるための大きなフリに聞こえてくるんだけどなー。
 そう思いながらおれは集団から抜け出して、顧問の隣に立って部員と向き合うように立った。
 こういうときの一発目って、やっぱり部長からになる。つまりおれ。こういうとき、部長って面倒くさいって思うか、一番手だから何言ってもいいなという気楽さをもつかで思考が分かれると思うんだけど、おれはどっちかといえば前者の方だ。なにごともネガティブに考えがちで、だからいつも思考の渦に呑まれて、溺れて、ずっとずっと苦しい気持ちになった。

『――一回負けただけで、エースって呼べなくなるの?』

 もしもおれが再び広瀬にタイムで負けたとして。同じことを松井田か、他の誰かに問われることがあったなら。
 正直な話おれは、口には出さずとも真っ先に今までと変わらない答えを頭の中に思い浮かべるはずだ。誰かの称賛があっても、おれがおれ自身を認められなければ、おれはおれをエースだと認めることは出来ない。
 松井田の言葉で軽くなった心はあれど、三つ子の魂百までという言葉通りに、明日から考えをがらっと変えて生きるなんて芸当はおれには不可能だ。
 ただそれでも悲観的になるだけじゃなくて、勇気を出しておれ自身が納得できる一歩を選ぶことは出来る。

(――俺を見てくれる人がいる。そのうえで、おれは)

 おれは息を吸った。

 春の気配は強く、桜は満開。でも、今日はちょっとだけ冷える。
 背伸びして入学式に臨む新入生みたいな、そんな春になりたての空気が、おれの肺を満たしていく。

「――次の高体連。おれはまず、個人で県大会に行きます」

 たぶん、おれがおふざけの抱負に走るのだろうなと思っていたのだろう。部員たちの驚いた顔がおれの視界に複数映り込んだ。
 たぶん、何も無ければおれだってそうした。笑いをとって、堅苦しい雰囲気を壊して、後続が抱負を言いやすくしたはずだ。
 そんな視線を集めながら、おれは広瀬の方を見た。
 おれの真面目な抱負に、思っていた通り広瀬は驚いてはいなかった。テストの点数とかでは揶揄ってくるときもあるが、こと陸上競技においての真面目な目標に笑うやつじゃない。笑うくらいなら、あれだけの努力が出来るわけがない。
 ただ、その抱負のあとにおれと目があったことで、多少の身じろぎをする。

(――そのうえで、おれは)

(やっぱりおれは、おれのことを見てほしい人にも、おれを見てもらいたい)

 それが、おれの中で変わらない傲慢さと身勝手さだった。
 視線の正しい意図はきっと広瀬に伝わらない。それはそうだ、おれの中で指針を決めても、広瀬には何も伝えていないのだから。顔に出ようが態度に出ようが、言葉にしなければ心のうちなどは正しく伝わらない。おれが、広瀬と高橋のことに仮説を付けられていても、それが正しいとは言い切れないように。

「じゃあ、次、副部長!」

 顧問の声におれは集団に戻り、入れ替わりに副部長である松井田が前に出た。ああ、松井田ならこの空気感のなかでもおどけてくれるだろうし、下手に白けることはないだろう。そんな安心感を胸に抱きつつ、おれは部員の一員となって顧問や松井田の前に並んだ。
 隣から、視線を感じる。隣に居るのは広瀬だ。
 言わなきゃ伝わらない。でも、おれの抱負の時間は終わった。
 だから、いまはこれだけ。
 おれはちらりと広瀬に視線を向けて、言った。

「広瀬」

 ずっと広瀬が、羨ましかった。
 おれよりも努力を重ねることが出来て、ぐんぐんと目に見える結果を残していく広瀬が。必勝祈願を断って協調性がないなんて言われていても、風当たりの強い中で自分の意思を貫き通すことの出来るところが。

 神様なんていないって、言い切ってしまえるお前が。

 わかっている。神頼みなんて気休めだ。必勝祈願、なんて手のひらを合わせて願ったところで、松井田のように結果を残せる人間もいれば、おれのように結果のひとつも出せない奴だっている。
 結局、最後にものを言うのは実力なのだ。神様に願うかどうかじゃない。
 カミサマからの贈り物なんて母の言葉を鵜呑みして、浩一郎や高橋、広瀬の努力を、そして自分の努力すら見えないようにしていたのは、おれだ。
 それでもおれは、きっとあいつみたいに「神様なんていない」なんて、神様の存在を根源から否定することは出来ない。家に帰って浩一郎の好物が食卓に並ぶたびに、宗一郎がおれに母の様子を聞くたびに、広瀬の走り方に中学時代の高橋ゆきを重ねるたびに、おれはきっと神様を恨まずにはいられない。

 ――神様って、いると思う?

 恨む感情があるかぎり、おれのなかで神様は有り続ける。
 ――ああ、だからこそ、滑稽でも神前に立ってやろう。

「――次の大会は、絶対に負けないから」

 神様なんていなければいいのに、と思う心で。実力主義だと分かった世界で足を踏みしめて。自分に都合よく、奇跡を味方につけるかのように、祈願でも宣言でもなんだってしてやろう。
 悲観的になって立ち止まるくらいなら、神様だって利用して前に進んでやる。

 だっておれは、朝凪高校陸上部の、エースなのだから。


 ちらりと隣に視線を向ければ、広瀬が驚いた顔でおれをみている。
 そのぐらいのことで馬鹿みたいに小さな満足感を得ながら、おれは順番に抱負を言っていく部員たちと改めて向き合った。
 次の大会は五月。高体連。
 今日から本格的に、高校最後の大会への練習が始まる。
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