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第一章
贅沢なペイン 3
しおりを挟むその翌日も同様に残業で。滝沢主任は健介のクライアントから再び呼び出されてしまい、オフィスに残っているのは私と祐奈、それからかなり離れた席に数名の男性社員がいるのみだ。
「やっぱ決算月は無茶な納品が多いなあ」
「だいたいどこの企業も、次年度の割当を減らされないようにと強引に予算を使い切ろうとするもんね。売上アップは有り難いけど、結局は男性陣が頑張ることになるから申し訳ないわ」
なんだかんだ言ってウチの男性社員は力仕事を率先してやってくれる。だからこうして女性社員の方はデスクワークを頑張るのだ。しかし繁忙期ともなると資料作成を依頼した側が終日外出していたりして、不明点を電話で確認しようにもなかなか連絡が取れず、そういう書類に限って明日の朝イチに欲しいという緊急案件だったりする。
今日の祐奈は正にソレだ。
「中沢さんが電話くれたら帰れるのにな」
「祐奈、私もよ。中沢さんと連絡取れたら私にも代わって」
正に2人揃って中沢待ち状態。私の方は中沢さんが懇意にしている得意先の社長夫人が急逝したので、その通夜に行くのであれば住所等を伝えたいのだが。電話しても留守電にならず、『電源が入っておりません』という無情なメッセージが流れるのみ。
「またバッテリー切れかなあ。中沢さん、たまにやるし…」
「かもねえ。忙しい時に限ってヤルよね」
ピピピピピ…。
そんな時に業務用の携帯電話が鳴れば、そりゃあ喜ぶワケで。しかも祐奈の顔が明るく輝いたので、絶対にこの電話は中沢さんからだと信じて疑わなかったのに。
「はい、ええ、そうですよ。代わればいいですか?はい、雅。電話を代わってくれって」
「ありがとう祐奈。…お電話代わりました、高橋です」
ぶぶっ。
いきなり笑われたことに動揺していると、中沢さんだと思っていたその人が実は別人だったことに気付く。
「雅?俺だよ、芳」
「えっ?!な、なんで」
「なんでって、仕事の話なんだけど。だから業務用に掛けたんだっつうの」
「あ…そ、そうだったの?ゴメン」
一気に用件を話し出され、在庫確認や販促ツールなどを調べるため一旦保留にする。
「祐奈…この電話、芳からだったよ」
「うん、知ってるけど」
「どうして私の業務用じゃなく、祐奈の業務用に掛けてきたのかな?」
「たぶん、雅が…翔くんだっけ??彼と会ってる最中に掛けてしまったら悪いと思って遠慮したんじゃない?」
「…は?」
「雅、退社後も業務用携帯を持ち歩くし。それで私に状況を確認させた上で、雅と気兼ねなく喋ろうと思ってるのかも」
そ、そこまでしなくても…。って、いやいや、でもこれ本当に仕事の電話だし。断っちゃダメなヤツだし。勝手に気にしてドキドキしているのは私だけ??芳は最後まで仕事のことしか話さず、この調子で翌日も、その翌々日も私に電話を掛けてきた。
…………
大阪出張組…すなわち芳と健介がいよいよ明日戻って来るという頃、営業部ではちょっとした事件が起きた。他部署の女性が光正に告白し、『彼女がいるから』と断わられたそうで。早朝、誰もいない休憩室での出来事だったはずが、丁度そこに滝沢主任がやって来たせいで執拗なまでの詮索が始まったのである。
「なあ、番匠。お前つい最近まで『彼女いません』とか言ってなかったっけ?」
「はい、そうですけど」
「だよなあ。それがいったい、いつ出来たんだよ?」
「えっ?彼女が…ですか?」
朝礼前でほぼ全員が着席している状態だった。光正は報告書を持ったまま自分の真横に立っているというのに、なぜか主任は声のボリュームを最大にし、その会話内容を周囲に聞かせていた。もちろん主任の性格からして悪気はまったく無いのだ。もしかして、モテて困っている光正に彼女が出来ましたアピールの機会を与え、仕事に集中させてやろうと思っているのかもしれない。
しかし主任の斜め前の席で、私は化石のように固まっていた。怖くて光正の方に顔も向けられない。耳に全意識を集中させていると主任はズバズバ切り込んでいく。
「なあ頼むからさあ、相手が社内と社外、どっちの人間かだけでも教えてくれよ~」
「…それは…社内、です」
シーンと営業部全体が水を打ったように静かになる。
「社内?!外回りばかりしてるクセして、お前いつの間に…って、まさか営業部?そっか、営業部の人間と付き合っているんだな」
「……」
肯定も否定もしないが、その余白は『はい』と同義であるとここにいる誰もが思ったはずだ。ゆるゆると視線を光正の方に向けると、彼はとんでもなく困った顔をしていて。それでも私を見ないのは、必死に守ろうとしてくれているからだろう。もう経理部の佐久間さんが怖いとかそんなことを言っている場合では無い。いっそこれを機に、私達の関係をオープンにしてしまおうか。脳内でひたすら葛藤していると、滝沢主任はパチンと手を合わせて言った。
「ああ、そっか!岡野…岡野瞳だろう?」
「えっ?!どうして岡野さんが出てく…」
主任という人は、自分の声の大きさに気づいていないのだ。だから多分ここから先の会話は、誰にも聞こえていないと思っている。本当は、丸聞こえなのに…。
「うんうん、アイツなら納得だよ。そう言えば先週、『告白してみます』とかなんとか俺にワザワザ報告して来たな。あんなに美人で性格もいいのに、サバサバし過ぎてずっと彼氏いなくてさ。俺、心配してたんだよー。番匠と瞳なら超お似合いのカップルだと思うぞ、アハハハ…」
主任がそう思うのも仕方ないことだった。光正と仲の良い女性社員と言えば私と祐奈だけで、その私は翔との破局を報告していないし、祐奈は健介と付き合っている。じゃあ番匠の相手は誰だ?…と考えて思いつくのが、同じ班でよく行動を共にする瞳さんになってしまったのだろう。
もちろん他に光正と行動を共にする女性社員は数名いるが、その中でも真っ先に選ばれる理由はとにかく美人で性格が良いのだ。裏表が無く何事にも一生懸命で、見ている側にも『頑張ろう』と思わせてしまうような人だ。仕事に関してはキレ者だが、私生活の方は残念だと評判で。『ずっと彼氏はいない』と自ら笑い話にしていた瞳さんに、滝沢主任が『お前、番匠に惚れただろう?』と指摘した結果、それを肯定したそうで。その経緯が有ったからこそ『番匠と瞳なら、お似合いのカップルだと思うぞ』という発言に繋がったらしい。
多分ここで否定すべきなのだが、あまり大声で言うと瞳さんに恥をかかせることになる。しかし、しなければしないで周囲に誤解されたままになってしまう。窮地に追い込まれた光正の気持ちなんて知らずに、主任はただ笑うばかり。
「本当に違います!俺が付き合っているのは別の女性なので。色々と事情が有って誰かは言えませんが、この件はそっとしておいてください」
その思い詰めた表情に、主任もようやく自分のしたことの重大さに気づいたようだ。
「…へ?そう…なのか?いやあ、俺、てっきり…。マズったなあ。この話、瞳に聞こえてなければいいが。あの…さ、番匠。今更だけど瞳の気持ち、知らなかったことにしといてくれよ。本人じゃなく俺から伝わったなんて、あいつの性格から考えると可哀想過ぎるからさ。うあああッ、なんでこうなのかな、俺。ごめん、本当にごめんッ」
滝沢主任はこの調子で物凄く失言が多い人なのだが、素直にそれを認め、深く反省するので憎めないのである。…そしてこの会話は『岡野瞳と付き合っている』の部分が主任の大きな声で発表され、『付き合っているのは別の女性です』という否定部分は光正の遠慮がちな声で発表されたため、周囲には一切届かず。
その結果、光正と瞳さんが交際中だという噂は瞬く間に広がってしまった。
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