Falli’n

ももくり

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scene1

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 見た目というのは、やはり重要で。

 小学生で『エロい』と言われ、
 中学で『援交』、
 高校で『愛人』をしていると噂された。

 引っ込み思案なだけなのに『威圧的で上から目線』と言われたり、ビクビク片想いをしていたつもりが『思わせぶりな女』と呼ばれたり。挙句の果てに彼氏だと思っていたその男性は、私をセフレ程度にしか思っておらず。次こそは次こそはと期待し続け、見事に心は複雑骨折。それでもなんとか頑張れたのは、私のことを理解してくれる姉がいたからだ。

 >奈津は人見知りだから仕方ないよ。
 >そこが奈津のいいところなんだから。
 >いつか皆んな奈津のことを分かってくれるよ。

 そんな言葉に励まされなんとか生きてきたのに、その姉がいきなり結婚。5年間も一緒に住んでいたオンボロ一軒家を出て行くことに。この家、網戸の枠は歪んで嵌らないし、給湯器も壊れてしょっちゅう水になる。それでも住み続けていたのは家賃が格安だったからだが、よくよく考えてみれば折半するから安いだけで、1人だとメチャクチャ安いというワケでも無い。既に姉は荷物を運び出して結婚相手の元へ行ってしまったことだし、そろそろ私も引っ越そうかと悩んでいた矢先のことだった。

「ええっ?水が赤いの??」
「そうよ愛利ちゃん。洗濯機の中にレンガ色の水が溜まっていくの」

『わあスゴイ』と彼女は目をまん丸にして驚く。転職して何が嬉しいかって、人生初のランチ友達が出来たことに尽きる。しかし残念ながらこの友達はアシスタントの私とは異なり、営業職で非常に多忙なため滅多に昼には戻って来れないのだが。

「大家さんに頼んで直して貰えないの?」
「なんかねえ、難しいんだって」

 なかなか衝撃的な話だった。家主の話に寄れば、地下に埋まっている水道管自体が劣化しているとかで、それは我が家だけの問題ではなく、周辺地域全体の工事が必要になるのだと。1軒につき数十万円の費用が発生するらしく、近所の方々が首を縦に振らないのだそうだ。

「ウチの近辺、高齢者の1人暮らしだらけだしね。皆さん、そんな余裕は無いみたいよ」

 というワケで、浴室も台所も我が家の蛇口を捻って出て来る水は全て真っ赤。もちろん料理や食器洗いにはミネラルウォーターを使用しているのだが、そのせいで出費がハンパない。

 ううっ、このダダ下がりのテンションをどうしてくれようか。

「じゃあさ、ウチに泊まればいいよ!次に住むところが見つかるまで!!」
「ゴニョゴニョ…そ、それは断るわ」

『なんで?!』とショックを受けているその姿を見て、私の方が驚いた。この愛利ちゃん、現在は彼氏と同棲中で、社長の息子でもあるその彼氏の羽場さんから私は過去に手酷くフラれているのだ。そんな2人の愛の住処にどうして間借りすることなど出来ようか。

 そこまで面の皮は厚くありません。

 あ、でも愛利ちゃんは断られて傷ついてるよね。
 でもでも、理由を言うともっと傷つくだろうし。

 悩んだ挙句、私は『無』となった。

 ダメだなあ、この逃げの姿勢が誤解を招くのだと思い、改めて説明しようと決心したものの…。

「愛利ちゃんっ」
「はい、なあに?」

 えっと、何も浮かばない。
 呼んでおいて結局、沈黙したりして。

 頭を絞って絞ってようやく言葉を捻り出す。

「あの、ほら私、銭湯が大好きで。次は近くに銭湯のある所に住みたいなって」
「……」

 特筆すべきは、私もヘンだがこのランチ友達も相当ヘンなのだ。本人いわく友人が今までいなかったらしく、だからと言うワケでは無いのだろうがいろいろと間違っている。打ち解けている相手が彼氏である羽場さんと、同僚で仲の良い男性社員の尾崎さんの2人だけなので、彼らに対して有り得ないことを頼んだりするのだ。

「あ!尾崎さーん」
「んー、何?」

 この時、ちょうど昼休みで。私達は電話番がてらオフィスの片隅でお手製弁当を広げていたのだが、彼女は外食から戻って来た尾崎さんに声を掛け、そこに向かってバッファローの如く走って行く。

「…ほんと?!本当にいいの??」

 喜んで飛び跳ねる愛利ちゃんの姿を眺めながら、私の中でイヤな予感が膨らむ。

「泊めてくれるって!」

 満面の笑みのその人に『誰が?』『誰を?』と問い返す勇気は無い。

「ほら、尾崎さんからも言ってあげてよ。ナッちゃんをしばらく泊めてあげてもイイって」
「ああ、岡本さんさえ良ければどうぞ」

「ええっ、だって迷惑じゃないんですか?」
「悪いけど俺、タイプじゃない女には手ェ出さないし。ウチ、銭湯からも近いよ」

『考えさせてください』と一旦保留にしたものの、その晩、事件が発生する。誰もいないはずの2階で物音がして、恐る恐る階段を上がると見知らぬ男性が外部から窓を外そうとしていたのである。結局それは未遂に終わったのだが、身の危険を感じた私は非常識だということを承知の上で尾崎さんに同居を懇願した。




 …………
 そんなワケで私は今、尾崎邸にて洗濯槽に溜まっていく水を眺めている最中だ。

 ああ、透明って素晴らしい。
 私の心まで透き通っていく。

「岡本さん、ちょっといい?」
「あ、はいっ。何ですか尾崎さん」

 私の中でもう尾崎さんは命の恩人的な存在となっており、自分は呼ばれればすぐに飛んでいく下僕…いや、犬である。

 優秀な犬だと思われたい。
 可愛がって貰えないと住処を失う。

 そんな考えで、わふわふ走っていく。

 するとリビングに見知らぬ人物が立っており、尾崎さんがその男性を紹介してくれるのだ。

「この部屋のオーナーで、俺の友人の郷田ゴウダ。バーテンやってて、俺らと昼夜逆の生活だし、多分そんなに顔を合わせることは無いと思う」

 …へ?オーナー??

 キョトンとしていると尾崎さんが説明を始めた。ここは郷田さんが購入した分譲マンションで、ローン返済の足しにと尾崎さんが1部屋借りているそうだ。

「で、郷田、こちらが岡本さん。事情はさっき説明した通りな。次の住まいが見つかるまで、泊まらせてやって。えっと、荷物はトランク1個分?少ないなあ。取り敢えず俺がリビングで寝るから、岡本さんは俺の部屋を使ってよ」

『そんな申し訳ないこと出来ません』…そう言いたかったのに。なぜか私の口からは一言しか出てこなかった。

「イ、イヤです」
「何で?!俺のベッドが臭くて寝れないとか?まあ、自分で自分の体臭は気付かないとか聞くけどさ、そう思って消臭スプレーしておいたから。部屋数もリビングの他は2つしか無いし、我慢してくれよ、な?」

 そ、そうじゃなくて。私がリビングで寝ますと言いたいのに、尾崎さんの気迫にビビッて怯んでしまう。

「あとさ、念のため言っておく。男の連れ込み禁止な!外泊は遠慮なくしてくれていいから。あ、でも心配だからその都度伝えてくれ、外泊先は教えてくれなくてもいいからさ」

『連れ込み』って、男性経験1人ですけど?
 私、どんだけビッチだと思われてるんだろうか。

 外泊先なんてお姉ちゃんの新居と実家しか思い浮かばないっつうの。しかしこの扱いには慣れているので淡々と答える。

「承知しました。あの、でも、私がこっちに寝…」

 勇気を出して言おうとしたのに、尾崎さんは郷田さんとキャッキャしていた。

「岡本さん、郷田が今日は休みなんだって。キミの歓迎パーティーをしようぜ!」

 パーティー?わふわふ、喜んでッ。

 見るからにモテそうな郷田さんがキラキラオーラ全開で私に訊いてくる。

「岡本さんって、すごく飲めそうな顔してるし、絶対にイケルよね?」

 へ?あの、それが一滴も飲めない下戸でして。なんてオーナー様に言える気がしない。嘘は吐きたくなかったので無言で微笑むと、その数時間後に『へべれけ奈津』の出来上がり。これが恐ろしいほど本音を喋りまくるのだ。それと言うのも、郷田さんの雰囲気が私をセフレ扱いした男と似ていたせいかもしれない。

 良く言えば、人と接することに抵抗が無い。
 悪く言えば、馴れ馴れしい。

 当時大学生だった私は、カラダ目当てで声を掛けてくる男達に辟易し、誰彼問わず冷たく接していた。そんな無愛想な私に対してバイト先で知り合ったその男は、とても優しかったのである。

 …男慣れしていない私は、それだけで落ちた。

 この人だけは他の男と違うと勝手に思い込んだのである。そんなある日、食事に誘われて楽しく時間を過ごした後、いきなりホテルへ。それでも好きだったので素直に従い、以降は誘われればいつでも飛んで行った。そして、あまりにも彼の態度が素っ気ないので、ある日勇気を出してデートに誘ってみたところ彼は呆れたようにこう言ったのだ。

『彼女に見つかったら困る』と。
『セフレなんだし、そういうのは不要だろ』と。

 そうか、そういうことか。

 ガツガツ誘って来なかったのは本命の彼女がいたからで、コイツも他の男達と同じだったのだ。もちろん私はスグに別れを切り出し、その数日後にバイト先の控室で彼が他の男性スタッフに吹聴しているのを偶然耳にしてしまう。

 >奈津って男性経験豊富だと思ったら
 >メチャクチャ下手でさ~。

 激しいまでの絶望。

 もう男なんて誰も信じない。
 死ぬまで恋はしない。

 そのままバイトを辞めて帰宅し、おんおん泣く私を姉が優しく慰めてくれた。

「一生、恋をしないなんて無理よ。男なんてね、抽選クジみたいなもので、ハズレもあれば当たりもあるんだから。しかもね、他の誰かにとってハズレでも、自分には当たりだったりするの。だから奈津の当たりがまだ見つからないだけ。1回のハズレで諦めないで、気長に待つのよ」

 私は姉が大好きで、だから素直に頷いたのである。

「奈津はイイ子だから必ず幸せになれる。焦ること無い、ゆっくりでも前に進んでるから。勉強になったと思って、次の恋に活かしなさい」

 お姉ちゃん、いつもありがとう。
 うええええん。

 



 …………
「って、なんで泣いてるのかな?おーい、岡本さーん。大丈夫かい?」
「うふ、郷田さんの名刺だあ。ん?名前が郷田武志…ゴウダ、タケシ?ぷっ!ジャイアンだしッ」

「そのネタはもう言われ慣れてるんだよ。そっか、実は酒に弱いんだな?!早く教えてくれれば良かったのに。3杯も飲ませちゃったじゃないか」
「はい、はいッ!尾崎さんッ!!」

 ぼやけた意識の中で、私は畏れ多くも郷田オーナーの名前を貶し、必死で自己アピールしていた。

「な、何だよ岡本さん、ウルサイなあ」
「岡本ではありまへんッ。『ウブ田ウブ子』でありますッ。遊んでる女だと思われがちですけどね、こう見えて私、経験人数1人だけなんだからッ。それもこっちは本気だったのに、向こうには本命の彼女がいて騙されたのッ。皆んな勝手に私のことを決めつけてるけど、そんな女じゃないんですッ。うあああん」

 泣いて、笑って、怒って、また泣いて。
 最悪の絡み酒だったと思う。

 そして翌朝、目覚めるとそこは自分とは違う匂いがするベッドの上で。粘つく口の中と脂っぽい顔をどうにかしようと洗面所へ向かった。

 五感を研ぎ澄ませ、誰にも会わないよう用心しながら向かったはずなのに。

「おはよ、ウブ子ちゃん」
「お、おばようございますッ。郷田しゃん」

 洒落たパーマヘアをヘアバンドでまとめた彼は洗顔の真っ最中で、柔らかそうなタオルで顔を拭き終えると私に場所を譲ってくれる。

「じゃあね、おやすみ」
「お、おやすみなさいッ」

 そっか、昼夜逆転しているんだっけ。

 朝6時に就寝し、正午頃に起きるのだと。郷田さんと付き合う女性は大変そうだ。ん?彼女も同じような職種なら問題無いか。って、他人の心配をしている場合じゃない。早く部屋探しをしてココを出ないと。

 そんなことをアレコレ悩みながら自分も洗顔を済ませ、タオルを首に掛けたまま冷蔵庫へと向かう。すると今度は尾崎さんが台所でコーヒーを淹れていた。


「おはようございます、尾崎さん!あの、昨夜は本当に失礼しました。勝手にペラペラ喋った挙句、ベッドまで運ばせてしまったようで、もう何とお詫びすればいいのやら…」

 ひたすら謝り続ける私に彼は無表情なまま口を開く。

「砂糖とミルク入れる?」
「え?は?」

「コーヒー」
「い、いただけるんですか?ではミルクを」

 引き攣った笑顔で受け取る。

 マグカップの取っ手は彼が持っているので、私は本体を手にしたのだが、正直熱い。飛び上がりそうになるほど熱いが、そのままの状態で尾崎師匠は話し出す。

 ウォアチッ、死ぬううッ。
 しかし、笑顔で頑張る私。

「あのさ、俺、勝手に決めつけて悪かったよ。外見で判断したというか、ほら、人事部長の愛人でコネ入社とかいう噂も聞いててさ。ちょっとそういう先入観を持ってたと言うか」

 また出たな!岡本奈津・愛人説。

「ち、違います。私、就職先が見つからなくてコーヒーショップでバイトしていたんですけど、人事部長はそのときの常連さんで。『ちょうど営業アシスタントに空きが出たから』と声を掛けてくださっただけなんですッ」

 必死で弁解していると、尾崎さんはこんな質問を返してきた。

「うそ、本業だったんなら岡本さんってもしやコーヒーに煩い人だったりする?」
「いえ、そこの店は豆をザーッと入れると、後は機械がガーッ、ボトボトボトって勝手にコーヒーを作ってくれるので」

 そ、そんなことより熱いんです。
 もう取っ手を放して貰えないでしょうか。

 ズズッと自分のコーヒーを立ち飲みし、普段は無表情な彼が破壊力MAXの笑顔でこう続けた。

「はは、擬音多すぎ。ザーッでガーッでボトボトボトって。…ウブ子は面白いな」

 なんだか嫌な予感がしたのだ。

 私を好きでも無いのに、泊めてくれて。
 快適なベッドを私に譲り、自分はソファで眠る。
 ウンウンって私の話に耳を傾け、仇名で呼ぶ男。

 羽場さんのときも優しくされてスグ好きになり、驚きのスピードで恋に破れたと言うのに。また同じ轍を踏むのか?しかもこの人は私のことがタイプでは無いと。私には絶対手を出さないと断言しているというのに。

「どうした?顔、真っ赤だけど」
「じ、実は先程からマグカップが熱くて…」

『うおっ、ゴメン!!』と謝られつつも、自分で自分に言い聞かせた。

 早く新しい恋をしよう。
 この人を好きになってはダメだ…と。







 …………
 6月は物件が少ないのだとどこの不動産会社に行っても言われた。『来月もよく似たものですよ』とも。ネットでも検索してみたが、家賃が高かったり、通勤には遠過ぎたり。選り好みをしているワケでは無いけれど、足を運ぶほどの物件には出会えないまま1週間が経過。

 もう限界だった。これ以上、尾崎さんをソファで寝かせると、その罪悪感で私の方が死にそうだ。

「うーっ」

 彼が小さく唸りながら肩を回し、首をコキコキするだけで飛んで行く私。

「あ、あのっ、ソファで寝ているせいですよね?ほんと私は平気なので代わってください、お願いします、お願いしますッ」
「ああ、もうまたその話かよ。俺は元々、肩凝りが激しいんだって。どこで寝ても同じだから気にすんな」

 いやいや、そうじゃないでしょうと私が言えば、うるさい、黙れと返される。激しい攻防が続き、とうとう郷田さんがキレた。

「その会話、もう飽き飽きなんだけど。いっそ一緒に寝ればいいじゃないか」
「結婚前の若い男女が同じ布団で寝るなんて、有り得ませんよッ。バカ言わないでくださいッ」

 …などと怒っていたあの頃が懐かしい。

 それから更に数日後、最悪の事態が起きた。尾崎さんが風邪を引いたのだ。37度と微熱だったが、とにかく咳がスゴイ。それでも彼はソファで寝ると言い張り、さすがの私も決心した。風邪薬を飲み、ソファで熟睡する尾崎さんを郷田さんと2人でベッドへ運び、私は念願のソファで就寝。実際に寝てみて分かったのだが、恐ろしいほどの寝心地の悪さだ。

 硬い、狭い、動くたびミシミシ煩い。

 この三重苦を彼に与えていたのかと思うと、自分が極悪人のように思えてくる。懺悔にも似た気持ちで横たわっていたらいつのまにか深い眠りについたらしく、次に目を開けた時には何故か尾崎さんと一緒にベッドで寝ていた。

 叫びたいが起こしてはいけないとも思い、心の中で絶叫する。

 >は、はあああああっ?!

 暗闇で目を覚ました尾崎さんの白目が一瞬だけキラリと輝き、彼はシーツを私に掛け直してから頭をポンポンと叩いてまた瞼を閉じる。だから私はもう一度だけ心の中で叫んだ。

 >は、はあああああっ?!

 この状況で再び眠れるはずが無い。

 すると急に尾崎さんが咳込みだしたのでその背中を擦っていたら、いきなり抱き着かれた。明らかに寝ぼけているので私を抱き枕だとでも思っているのだろう。

「ゲホッ、ゲホッ、ゴホッ」

 背中を擦る手に力を込めると尾崎さんも更に強く抱き締めてくる。

 え、ええっ?

 日頃のクールな姿からは想像もつかないが、
 私の胸に顔を埋めて笑っているではないか。

 そう、あの尾崎さんが私のオッパイに頬ずりして笑っているのだ。

 なんだコレ?ぐえっ。く、苦しい。

 今度は私の下半身を自分の両脚で挟んで、ギュウギュウと締め付ける。

 苦行だわ!でもココで恩返しをしなければ!!

 我が身を捧げるような気持ちで成すがままにされていると、スヤスヤと寝息を立てて尾崎さんは私を抱き締めたまま再び眠りに就く。

 不思議とイヤでは無くて。

 自分が必要とされている感じがヒシヒシ伝わり、あちこちから流れてくる体温が心地良いほどで。セックスに相性があるように、ただ抱き合うだけの場合でも相性というものがあるのかもしれない。

 …とにかく落ち着いた。
 この底無しの安心感は、何?

 他人で、しかも異性に抱き締められているのに、どうしてこれほど穏やかな気持ちになれるのか。柔らかな温もりが徐々に緊張を溶かし、私は完全にその身を任せてマブタを閉じる。その後、一度も目覚めることなく朝まで熟睡。

「あ、おはようございます」
「おはよ。でさ、もう俺を放してくれないかな」

 …なぜか次に起きたときには形勢逆転で、
 私が尾崎さんを抱き締めていたりするワケだ。

 尾崎さんはとても困っていた。自分の背中に回されている腕を外そうとしたが、何度も抵抗されたらしい。

「ご、ごめんなさい。まるで痴女ですよねッ」

 慌てて両手を放すと、その勢いで後ろに倒れてそのままベッドから落ちそうになり、尾崎さんが素早く私の腰を抱き抱える。

「か、顔が…近い…かも」
「手を放すから、もうちょっとこっち来て」

 せっかく遊び人ではないと告白したのに、これでは全てが台無しだ。そんなことを瞬時に思う自分がいじましい。

「ぷっ、あはは。ウブ子、顔まっ赤だぞ。本当に男慣れしてないんだな」
「あ、はいっ、してませんッ」

 ええ、私はアナタの犬だから、気に入って貰える様な返事を頑張って選びます。

「なあ、相談なんだけどさ、これからはもう一緒にベッドで寝ないか?」

 その瞳の奥を覗きながら、尾崎さんが求める言葉を探す。

「は…い」

 たぶん、これが正解で。

「うん、そうしよう。一晩一緒に寝てみて、これなら大丈夫かなって。お互い他言無用にすれば何も問題無いしさ。あ、でも本当はイヤだったら、遠慮なく言って」

 >これなら大丈夫かなって。

 …その言葉はグサリと私を傷つけた。
 それは『一緒に寝ても何とも思わない女』という烙印を押されたも同様なのだから。バカだな、そもそも尾崎さんのタイプは真面目で可愛い女のコなのに、何を勝手に期待して、そして傷ついているのか。

「いいえ。尾崎さんさえ良ければ、それで。あの、もし寝相が悪かったり、寝言とかイビキが煩かったら必ず言ってくださいね」
「うん、分かったよ」

 随分とおかしなことになってしまったが、引っ越すまでの間だけだから物件探しを頑張れば良いだけだ。そう軽く考えていたが、現実は意外と厳しかった。

 努力の甲斐なくなんだかんだで1カ月が経過。

 しかもその間に郷田さんが彼女をつくり、しかもそれが昼間勤めのOLだったものだから、平日の早朝からイチャつく様になったのである。

 >それダメーッ、やっ、やだあっ。
 >もう許して、あああん、ダメ、ダメッ。
 >やん、おっきぃ、気持ちいい、ああん!

 見た目はとっても清楚なお嬢さんなのに、あの可愛らしい姿からは想像もつかないエロい喘ぎ声のオンパレード。お陰様で私と尾崎さんは眠れるワケもなく、ベッドに横たわったまま天井を見つめ微動だにしない。

「ごめんな、ウブ子。…その、変な感じでさ」
「なぜ尾崎さんが謝るんですか?誰も悪くないので謝らないでくださいよ」

「うん、ごめん」
「もぉ、言った矢先にまた謝る~」

 凍っていた空気が少しだけ解れたと思うと、すぐ郷田さんの彼女がそれを台無しにする。

 >あっあ~ッ、いいッ!
 >奥、いいッ、あん、あん、あん…。

 前言撤回。やっぱり『誰も悪くない』のではなく、郷田さんの彼女が全部悪いっ!!同性の私でさえも、おかしな気分にさせるその喘ぎ声、天才かっつうの。

 とにかく私と尾崎さんは必死で頑張った。
 ヘッドフォンで音楽を聴いたり、耳栓したり。

 でも、終わったかなと油断するとすぐにあの喘ぎ声を復活させるのだ。人間には『自制』という機能が有り、私達はその機能を信頼していた。だが、その信頼が今まさに崩壊寸前である。

 …その晩、接待で酔って帰って来た尾崎さんはフラフラとベッドに辿り着き、例の喘ぎ声を聞いてしまうのだ。

 >イっちゃう、こんなのイっちゃうよお。
 >ああん、もっと、もっとちょうだい。

「ああーっ、もう無理ッ!!」
「え?!あの、尾崎…さん??」

 気付けば私の上に尾崎さんが覆い被さっていて。

 薄闇の中、見たこともない切なげな表情で私を眺めていた。
 
 
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