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2.マミは過去を語る

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 少しだけ時を戻そう。

 そこへ至る迄に松原さんに向けて熱く語ったのは、己の身に起きた事件についてである。『事件』と称するのは多少抵抗が有るが、自分にとってそれは人生観を変えるほどの大きな出来事だったので敢えてそう呼ばせて貰おう。

 あれは私が小学6年生になる前の冬休みのことだ。

 当時の我が家は、実直な父と明るい母、その子供である兄と私、それに優しい父方の祖母の5人構成だった。父は数年前に引き出物のセレクトショップを起業したばかりで、何もかも手探り状態だったため他に人を雇う余裕も無く、母と2人だけで馬車馬の如く働いていた。だから夫婦揃って深夜帰宅になるのは当たり前、私と兄の面倒は全て祖母任せで、家事はもちろん学校行事も全て祖母に丸投げされていたのである。『お母さんじゃなきゃイヤ!』と駄々をこねる私を諭しながら、祖母はとにかく頑張っていたと思う。

 それが僅か一日で急変した。

 あれは寒い冬の日。雪道で転んだ祖母は腰を強打し、そのまま寝たきり生活に突入してしまったのだ。そして、ほどなくして始まったのが介護の押し付け合い。次男だった父は、私達の面倒を見て貰うことを目的に祖母と同居していたのだが、その祖母が寝たきりになった途端、同居を解消したいと申し出る。長男…つまり私から見れば伯父夫婦に、祖母を押し付けようとしたワケだ。

『仕方ないでしょ、お義母さんの面倒を見ていたら仕事が成り立たないの』
『そうさ、長男が面倒を見るのは当然のことだ!』
『利用価値が無くなった途端、追い出すわけ?!』
『お前らは血も涙も無い、最低の人間だな!』

 伯父夫婦と両親との言い争いは、連日連夜続き。いつしかそれは祖母の前でも平気で行なわれるようになっていく。そのせいなのかは不明だが、その後、祖母は癌を患い入院。更に数か月後、退院を促す医師に対して母はこう懇願したのだ。

『お願いです、退院させないでください』


 …悲しかった。

 何故なら、私は知っていたから。

 居心地の良い家にする為に、
 祖母がどれほど心を砕いていたのかを。

 家族の健康を気遣い、孫達が寂しくない様にと心を配り、忙しく動き回っていたその姿は、殆ど家にいない母にはあまり有難味が無かったのだろう。残念ながら息子であるはずの父も、仕事で苦労させているという負い目から妻の味方になるしかなかった。


 結局、祖母は遠い町の小さな病院に転院させられ、誰も見舞うことなく静かに息を引き取る。


 痩せ細った祖母の死に顔を見て、私は思ったのだ。世の中、不公平過ぎると。あんなに愛情を与えてくれた祖母に、この仕打ちは何なのかと。

 そう、祖母は優し過ぎた。
 そして、無欲過ぎたのだ。

 今ならば分かる。

 確かに仕事は大変だったかもしれないが、それでも母が家事や育児を放棄して良い理由にはならない。祖母はもっと我儘を言えば良かったのだ。そうする権利が祖母には有ったし、その当然の権利をどうして使おうとしなかったのか。

 たぶんあの時、従業員を1人雇えば母は定時で帰れたし、祖母が酷使されることも無かっただろう。父が従業員を雇わなかったのは、祖母の厚意に甘えていただけで、そうでなければ祖母が寝たきりになった途端、従業員を一気に3人も雇ったり出来なかったはずだ。

 3人、だ。
 既に事業は軌道に乗っていたのだと思う。
 
 仕事に加えて家事をする様になった母はスグに音を上げ、専業主婦となった。だからと言って祖母の苦労を慮ることもなく、私と兄が見舞いに行こうとすると何だかんだと言い訳をして引き留める始末。まあ、母なりに病院に押し込めたという罪悪感を抱いていたのかもしれないが、それでも、放ったらかしにして良いという理由にはならない。





「この世の中はなんて汚いんだろうって、幼心に思っちゃったんですよ。それがトラウマになって、どう生きるのが正解か最近ではもう分かんないんですよねえ」

 この調子で私は、延々と話をループさせた。それはもう、しつこいくらいに。『世の中は汚い』『生きるのって虚しい』とグチグチ繰り返した自覚は有る。

 それにとうとう松原さんがキレたのだ。
 
 
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