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私はニンジン
しおりを挟むその翌日。
神様は上手く采配してくださると言うか、このタイミングで廣瀬さんと会った。『会った』というか、システム開発部の奥の方に資料室が有り、そこへ向かう途中で偶然見掛けただけなのだが。
数年前に作成された公文書ファイル管理簿を探して来いという上司からの命を受け、手ぶらで歩いていたところ、システム開発部のドアを開けて彼が出て来たのである。
まあ、素敵。
蒸し暑いこの時期にピッタリな見た目にも涼しい水色ストライプのシャツと、光沢のあるブラウンのネクタイ。お洒落の上級者であるこの人らしい組み合わせだと思う。久々に見るその姿はキラキラという擬音が聞こえてきそうなほど、輝いていた。しかしこの場所で駆け寄るほど私は浅慮な女では無い。何故ならここには廣瀬さんの敵がウヨウヨいて、勤務中にイチャコラしようものなら何処で何を言われるか分からないからだ。
なので軽く会釈して立ち去ろうと思ったのに。
…のにのにのに。
「ちょっと待って」
「え?」
いきなり手首を掴まれて資料室へと向かい、そして指紋認証でドアを開錠した後はそのまま2人揃って入室する。パタンとドアが閉まる音を聞きながら私はその場で固まってしまう。
「ごめん、なかなか会えなくて。しかも、連絡もしなかった」
「あ…、えと…、いいんですよ、だって忙しいのは分かってるし」
ギュウギュウと正面から抱き締めながら、廣瀬さんは私の頭頂部に鼻を擦りつけて豪快に匂いを嗅いでいる。
「今の仕事があまりにも膠着状態でさ、社長と副社長に人員補給しろって要求したら『お前なら何とか出来る』と却下されたんだ。でもその代わり毎日、昼休憩の時間には朱里を資料室に寄越してくれるって」
「そっ、そんな公私混同…」
「ここんとこロクに休憩してなかったからな。昼飯もまともに食べて無かったし、周囲からは『死相が出ている』とまで言われているんだ。朱里の投入で俺のモチベーションが上がるのなら、万々歳という考えだろう。というワケで、今日からここで2人仲良くランチしような。コソコソ隠れて会う感じが背徳的で堪らないね」
「はあ…」
『人員補給はムリだが、毎日彼女と会わせてやるぞ!』って…大丈夫なのか、ウチの会社。社長からして常識に捕らわれない柔軟な考えをお持ちだとは聞いていたけど、これじゃあ私、競走馬の鼻先にぶら下げた人参状態だよね。って、ん?ということは…。
「朱里?どうした、何だか険しい顔になったよ」
「あのう…、もしかして総務部でもこのことは周知されているんですか?」
ぱあああっ、と明るく笑って廣瀬さんは答える。
「当然だよ!部課長を始め、朱里の課の人間は全員知っている。でもまあ、明日からは昼休憩の時間ピッタリにくればいいから、業務に影響は無いだろう?罪悪感を抱くとすれば、毎日1時間だけ資料室を個人的に使用するということだけかな」
「わお…」
『アナタはそれでいいでしょうが、私の方は昼休憩のたびにイチャイチャしていることを周囲に知られてしまったんですよ?どんな顔をしていればいいんですか?!』と責めようかとも思ったが、その顔をよく見ると余りにも疲労の色が濃かったので諦めた。
可哀想に、ギリギリで頑張っているんだな。
こんな姿を見たら、もう何も言えないよ。
そんなワケで、私は喜んで人参になることしたのである。
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