笑いは世界を救った。ただし、これからもそうとは限らない。

蓮實長治

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笑いは世界を救った。ただし、これからもそうとは限らない。

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「三〇年前、貴方の恩師である遠江とおとうみ亀介教授の『笑いは免疫力を上げる』と云う理論が世界を救った訳ですが……」
 その記者は、私に、まず、そう言った。
 そうだ、人類が、あの伝染病との戦いに打ち勝ってから三〇年。
 あの頃、まだ、博士課程の医学生だった私は、今や、我が恩師にして、世界を救った偉人であるあの人が居た研究室の教授になっていた。
 恩師には遠く及ばぬにせよ、一応は世界的医学者の一人と見做されるようになり、ニューヨークで行なわれる学会に来ていた。
 だが、何故か、医学と関係ない人権活動家向けのネットメディアの取材を受ける事になった。
「ええ。あの人の弟子の一人として、師の名を恥かしめぬように努力してきました」
「しかし、遠江教授の理論は、いつしか表現規制の名目に使われるようになっています。それは、どう思われますか?」
「と言いますと?」
「『笑い』『喜び』のようなポジティブな感情を呼び起す表現は、人権上の問題が有るものでも大目に見られ、『怒り』『哀しみ』などのネガティブな感情を呼び起す表現は、他者の健康を害する『テロ』と見做されてしまう。その結果、社会問題をフィクションなどで取り上げる事は不可能になりつつ有ります」
「なるほど……ですが、時代によって、流行が有るのは仕方無いのでは? 遠江先生の理論が、その流行を作ったにせよ、流行に乗ったものは駄作でも高く評価され、そうでないものは名作でも低評価となる。いつの時代でも有る問題の1パターンでは無いのですか?」
「つまり、今の時代、人々はフィクションに『哀しみ』や『怒り』ではなく、『笑い』や『喜び』を求めるべきなのでしょうか?」
「時代の趨勢にも寄りますが……ですが、私としては『笑い』や『喜び』は健康を増進させ、『怒り』や『哀しみ』はその逆だ、としか申し上げられません。遠江教授の理論が覆されない限りは……と云う条件付きですが」
「では、ある人達にとっては『笑い』を引き起すが、別の人達にとっては『怒り』を引き起す表現はどう思われますか?」
「……と言いますと?」
「例えば、人種差別を当然の前提とした冗談は、差別する側には『笑い』を、差別される側には『怒り』を引き起すでしょう」
「ああ、なるほど……『笑い』に関する表現は、多少の問題が有っても大目に見る、と云う風潮のせいで、そう云う『笑い』が広まりつつ有る、とおっしゃりたい訳ですね」
「はい」
「それは……私に聞くべき事でしょうか? そんな『笑い』が不快に思われるのなら、それから目を逸らし、別の『笑い』を求める。それが健康の為です」

 ニューヨーク市は、あの伝染病が流行していた頃とすっかり様変わりしていた。
 白人は、アメリカの人口の三〇%強になり、多分、私が今の仕事を定年退職する頃には二〇%台になっているだろう。
 人種別の平均収入や大学進学率に関しては……アメリカの人口の一〇%以上を占める人種の中では最下位だ。
 そして、刑務所では受刑者の半分近くが、少数派と化した筈の白人になっているらしい。
 ただ、白人がアメリカにおいて1マイノリティと化したとは言え、都会であるニューヨーク市には、まだ、白人の姿が多い。
 「貧すれば鈍す」……それが、今のアメリカの白人が置かれている状況だろう。
 三〇年前は「Black Lives Matter」運動が行なわれていたが……今は「White Lives Matter」のデモが目の前で行なわれていた。
 私は地下鉄に乗り、予約していたホテルの最寄り駅で降りる。そして、階段を登り、地上に出て……。
「おい、老いぼれのアジア野郎グークス。何、俺の女に色目を使ってやがる?」
 いきなり、白人訛りの若い男の大声が聞こえた。
 最初は、自分に言われた事だと判らなかった。
 だが……。
「おめぇに言ってんだよ、細目野郎ジッパー‼」
 目の前にはチンピラ風の十代後半らしい白人の男。そして、私は、頭部に衝撃を感じ……。

「で、犯人は何か武器を使いましたか?」
「いえ……素手だったかと……」
 私は、暴行による怪我で入院する事になった病院で刑事から聞き取りを受ける事になった。
 アフリカ系とアジア系の2人1組の刑事は、やれやれ、と云う表情になった。
「困りましたね……銃器犯罪でないと、いくら犯人がでも、捜査の優先度を下げざるを得ませんが……」
「は……はぁ……」
「盗まれたものが戻って来るかは……あまり期待をしないで下さい。あ、日本大使館には我々から連絡を入れましょうか?」
「は……はい、お願いします」
 スマホは壊された。スマホと言っても我々が若い頃のものとは完全に別物になり、この呼び方を使っているのも我々と同じか上の世代だけだが。
 モバイルPCや電子書籍リーダーは鞄ごと盗まれた。
 気分転換や暇潰しの手段はTVと云う古臭いメディアしか無い。
 刑事達が帰った後、昔とは全然別物になったTVのリモコンを何とか操作し、病室のTVをつける。
『本日は、ここ二十数年間のヘイトクライムの増加について解説します。この背景には、「笑いは免疫力を高める」と云う美名の元に、差別的な「笑い」が野放しにされた事が有ると見られています。既に州によっては暴力犯罪による死者の二〇%がヘイトクライムによるものとなっており、特にニューヨーク市では、ヘイトクライムによる死者数の増加が平均寿命にさえ影響を与えつつ有ります……』
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