夜の記録

６

主人公は、妖精が静かに消えていくのを見つめながら、その思考がふわりと解き放たれていくのを感じていた。空気がやけに澄んでいて、あたりの木々が揺れる音も、どこか軽やかで無邪気に響く。彼の心の中で何かが揺らぎ、そしてその振動がゆっくりと広がっていった。

妖精が言ったことを反芻しながら、主人公は自分の過去の思想に思いを巡らせる。自分は、何かとても大きな「真理」や「正義」を求めていたような気がする。それが自分の生き方を支えていたし、同時に何度も心を固くしていた。世界は善と悪に分かれ、どちらかを選ぶことで自分の位置を決めることができると思っていた。悪を排除し、善を選び取ることが、何よりも大切なことだと。

でも、今、この不思議な森で、あの妖精と過ごしているうちに、だんだんとその考えが揺らいでいく。妖精はただ「楽しむだけ」の存在だった。それに対して、主人公はこれまでの人生で、どれほど多くの事象に「意味」や「価値」を押し付けてきたのだろうか。正しいか間違っているか、良いか悪いか、善か悪か。それがすべてであり、それを決めることが自分の使命だと思っていたように感じる。

「楽しむだけ」という、妖精の言葉の中に、何か大切な真実が隠れているような気がした。それは、決して軽薄ではなく、むしろ深遠な何かを含んでいる。すべての出来事はただ流れ、そこには何も特別な「意味」や「価値」があるわけではない。ただ、存在する。それだけでいい。存在すること自体が、十分に美しいのだと思えてきた。

主人公は、今まで自分がどれほど「偏屈な思想」を抱えてきたのかに気づく。世界は、二元論で割り切れるものではないということ。すべてのものには、複雑で多面的な側面があり、善と悪の間にも微細なグラデーションが存在するのだ。彼が今まで信じてきた「正義」や「悪」、それらは全て彼の目を通して見た世界の一側面に過ぎなかった。今、この時、彼はその枠から解放されて、ようやく「無理に決めつける必要はない」と感じ始めている。

妖精が消えた後の森は、どこまでも静かで穏やかだった。風が木々を揺らし、葉っぱが舞い落ちる。その一つ一つが、まるで生きているかのように自然で、力強く、そして美しい。何かにとらわれず、ただ「存在」している。それだけがすべてだった。

主人公はふと、深く息を吸い込む。そして、手を伸ばして森の木々を触れてみる。冷たさも暖かさもなく、ただ、そこにある木の肌の感触。生きること、感じること、考えること、それ自体が重要なのだと気づく。彼は心の中で、少しずつ重いものが解けていくのを感じた。

「楽しむだけ」という言葉は、実に単純でありながら奥深いものだ。それは、無理に力を入れずに生きること、無駄に苦しまずにただ存在していくこと。過去の自分が背負ってきた重荷をおろし、肩の力を抜いて、自然に流れるように生きていくこと。それが、ひとつの真実なのだろう。

主人公は少し目を閉じ、深い森の中でその静けさに包まれながら、ゆっくりと考えを進める。何かを求めることが、自分を自由にしてくれるわけではなく、むしろ自由になれるのは、ただそのままでいること、すべてをただ受け入れること、そして何も強制せずに「存在すること」によってだと思う。

その瞬間、主人公は静かな微笑みを浮かべ、無理なく息を吐いた。そして、その一呼吸とともに、何かが変わり始めたように感じた。