三時の雨

ドルドレオン

文字の大きさ
6 / 11

しおりを挟む
『午後三時の静かな穴』——つづき

夜の図書館は、最初は何の変哲もない建物だった。
昼間、僕たちが訪れたときには、古い雑誌や新聞を保管するだけの小さな分館で、閉館時間は午後五時。窓には鉄格子がはまり、照明もすでに取り外されていた。

でもその晩、午後三時のレコードを再生してから訪れると、景色が変わっていた。

建物の外壁がわずかに湿っているように見え、空気の匂いも違った。風がまったく吹かず、音のない時間がそこだけに滞っている。図書館の扉には、見たことのない真鍮製のプレートが取り付けられていた。

特別書架 閲覧者No.17へ
一時アクセス許可:記憶層 - 午後三時

彼女は無言でうなずき、ドアを押した。

中は深く静かだった。音が吸い込まれ、まるで水の中を歩いているような感覚。天井が高く、壁は本で埋め尽くされていたが、どの背表紙にもタイトルは書かれていなかった。

一人の司書がカウンターに座っていた。
彼は黒いスーツに黒縁の眼鏡、表情を一切持たない顔だった。僕たちが近づくと、何も言わずに一冊のファイルを差し出した。古びた紙で綴じられた記録。それにはこう記されていた。

Vacuum Project: 被験者 No.17 - 初期記録
名前:抹消済
記憶提供者:女性・20代(仮)
状態:記憶の喪失ではなく、“記憶に取り込まれた”状態
備考:該当レコードNo.5にて消失

彼女はページをめくるたびに、指先を震わせていた。
紙に書かれた内容の断片が、彼女の記憶の奥から何かを引きずり出しているのがわかった。

「これ……私かもしれない」
「君が、No.17?」

「わからない。でも、誰かが“私の記憶に住んでいた”気がするの。夢で何度も待ってた“誰か”……私自身じゃなくて、その人が私を思い出そうとしていた」

司書が机の下からもう一枚、紙を差し出してきた。そこには、図書館の特別書架の配置図と、ひとつの指示が書かれていた。

棚番号53-B:Vacuum No.5 保管中
“記憶の中心”に触れる際は慎重に。戻れなくなる可能性あり。

彼女は深く息を吸い込んだ。
「行こう。レコードを、記憶を取り戻す。たとえ、それで何かを失っても」

特別書架:53-B

棚は図書館の一番奥、光がほとんど届かない場所にあった。
まるで時間が止まっているかのような空間。その真ん中に、透明なケースがあり、そこにひとつのレコードが収められていた。

白いジャケット。中央やや上に黒い点。
「Vacuum No.5」と手書きで記されていた。

彼女がケースに触れた瞬間、図書館全体がかすかに揺れた。棚の本たちがざわめき、天井のライトが一瞬だけ点滅した。そして、ふたりの足元に、あの“沈む感覚”が戻ってきた。

レコードが再生される前から、彼女はもう目を閉じていた。
彼女の記憶が、彼女自身よりも先に再生を始めたのだ。

回想——Vacuum No.5

…その場所は、音のない浜辺だった。
彼女は一人の少年と並んで座っていた。背後には無数のレコードが砂に埋まっている。
少年は、黙ったまま一枚のレコードを取り出していた。

「忘れないで」と少年は言った。
「僕がいなくなっても、君の中には僕が残る。
でも君がいなくなったら、僕はもう、誰の中にもいられなくなる」

その瞬間、風が吹いた。
レコードが砂の中へと引きずりこまれるように沈み、少年もまた、静かに消えていった。

図書館・現在

彼女が目を開けたとき、頬を一筋の涙が伝っていた。

「私、誰かを忘れたんじゃない。私の中に誰かが……閉じ込められていたの」
「Vacuum Projectは、記憶を記録するのではなく、記憶の中に誰かを“保管”するための実験だった」

僕は、その“誰か”が彼女にとって、どれだけ大きな存在だったのかを思った。
そして同時に、自分の中にも何かが失われていたような感覚に包まれていた。

「次は6枚目だね」
彼女は静かに言った。

「そこには、声が残っているはず。まだ、消えてないなら」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

不思議なショートストーリーたち

フジーニー
ミステリー
さくっと読める短編集 電車内の暇つぶしに、寝る前のお供に、毎日の楽しみに。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...