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『午後三時の静かな穴』——つづき
夜の図書館は、最初は何の変哲もない建物だった。
昼間、僕たちが訪れたときには、古い雑誌や新聞を保管するだけの小さな分館で、閉館時間は午後五時。窓には鉄格子がはまり、照明もすでに取り外されていた。
でもその晩、午後三時のレコードを再生してから訪れると、景色が変わっていた。
建物の外壁がわずかに湿っているように見え、空気の匂いも違った。風がまったく吹かず、音のない時間がそこだけに滞っている。図書館の扉には、見たことのない真鍮製のプレートが取り付けられていた。
特別書架 閲覧者No.17へ
一時アクセス許可:記憶層 - 午後三時
彼女は無言でうなずき、ドアを押した。
中は深く静かだった。音が吸い込まれ、まるで水の中を歩いているような感覚。天井が高く、壁は本で埋め尽くされていたが、どの背表紙にもタイトルは書かれていなかった。
一人の司書がカウンターに座っていた。
彼は黒いスーツに黒縁の眼鏡、表情を一切持たない顔だった。僕たちが近づくと、何も言わずに一冊のファイルを差し出した。古びた紙で綴じられた記録。それにはこう記されていた。
Vacuum Project: 被験者 No.17 - 初期記録
名前:抹消済
記憶提供者:女性・20代(仮)
状態:記憶の喪失ではなく、“記憶に取り込まれた”状態
備考:該当レコードNo.5にて消失
彼女はページをめくるたびに、指先を震わせていた。
紙に書かれた内容の断片が、彼女の記憶の奥から何かを引きずり出しているのがわかった。
「これ……私かもしれない」
「君が、No.17?」
「わからない。でも、誰かが“私の記憶に住んでいた”気がするの。夢で何度も待ってた“誰か”……私自身じゃなくて、その人が私を思い出そうとしていた」
司書が机の下からもう一枚、紙を差し出してきた。そこには、図書館の特別書架の配置図と、ひとつの指示が書かれていた。
棚番号53-B:Vacuum No.5 保管中
“記憶の中心”に触れる際は慎重に。戻れなくなる可能性あり。
彼女は深く息を吸い込んだ。
「行こう。レコードを、記憶を取り戻す。たとえ、それで何かを失っても」
特別書架:53-B
棚は図書館の一番奥、光がほとんど届かない場所にあった。
まるで時間が止まっているかのような空間。その真ん中に、透明なケースがあり、そこにひとつのレコードが収められていた。
白いジャケット。中央やや上に黒い点。
「Vacuum No.5」と手書きで記されていた。
彼女がケースに触れた瞬間、図書館全体がかすかに揺れた。棚の本たちがざわめき、天井のライトが一瞬だけ点滅した。そして、ふたりの足元に、あの“沈む感覚”が戻ってきた。
レコードが再生される前から、彼女はもう目を閉じていた。
彼女の記憶が、彼女自身よりも先に再生を始めたのだ。
回想——Vacuum No.5
…その場所は、音のない浜辺だった。
彼女は一人の少年と並んで座っていた。背後には無数のレコードが砂に埋まっている。
少年は、黙ったまま一枚のレコードを取り出していた。
「忘れないで」と少年は言った。
「僕がいなくなっても、君の中には僕が残る。
でも君がいなくなったら、僕はもう、誰の中にもいられなくなる」
その瞬間、風が吹いた。
レコードが砂の中へと引きずりこまれるように沈み、少年もまた、静かに消えていった。
図書館・現在
彼女が目を開けたとき、頬を一筋の涙が伝っていた。
「私、誰かを忘れたんじゃない。私の中に誰かが……閉じ込められていたの」
「Vacuum Projectは、記憶を記録するのではなく、記憶の中に誰かを“保管”するための実験だった」
僕は、その“誰か”が彼女にとって、どれだけ大きな存在だったのかを思った。
そして同時に、自分の中にも何かが失われていたような感覚に包まれていた。
「次は6枚目だね」
彼女は静かに言った。
「そこには、声が残っているはず。まだ、消えてないなら」
夜の図書館は、最初は何の変哲もない建物だった。
昼間、僕たちが訪れたときには、古い雑誌や新聞を保管するだけの小さな分館で、閉館時間は午後五時。窓には鉄格子がはまり、照明もすでに取り外されていた。
でもその晩、午後三時のレコードを再生してから訪れると、景色が変わっていた。
建物の外壁がわずかに湿っているように見え、空気の匂いも違った。風がまったく吹かず、音のない時間がそこだけに滞っている。図書館の扉には、見たことのない真鍮製のプレートが取り付けられていた。
特別書架 閲覧者No.17へ
一時アクセス許可:記憶層 - 午後三時
彼女は無言でうなずき、ドアを押した。
中は深く静かだった。音が吸い込まれ、まるで水の中を歩いているような感覚。天井が高く、壁は本で埋め尽くされていたが、どの背表紙にもタイトルは書かれていなかった。
一人の司書がカウンターに座っていた。
彼は黒いスーツに黒縁の眼鏡、表情を一切持たない顔だった。僕たちが近づくと、何も言わずに一冊のファイルを差し出した。古びた紙で綴じられた記録。それにはこう記されていた。
Vacuum Project: 被験者 No.17 - 初期記録
名前:抹消済
記憶提供者:女性・20代(仮)
状態:記憶の喪失ではなく、“記憶に取り込まれた”状態
備考:該当レコードNo.5にて消失
彼女はページをめくるたびに、指先を震わせていた。
紙に書かれた内容の断片が、彼女の記憶の奥から何かを引きずり出しているのがわかった。
「これ……私かもしれない」
「君が、No.17?」
「わからない。でも、誰かが“私の記憶に住んでいた”気がするの。夢で何度も待ってた“誰か”……私自身じゃなくて、その人が私を思い出そうとしていた」
司書が机の下からもう一枚、紙を差し出してきた。そこには、図書館の特別書架の配置図と、ひとつの指示が書かれていた。
棚番号53-B:Vacuum No.5 保管中
“記憶の中心”に触れる際は慎重に。戻れなくなる可能性あり。
彼女は深く息を吸い込んだ。
「行こう。レコードを、記憶を取り戻す。たとえ、それで何かを失っても」
特別書架:53-B
棚は図書館の一番奥、光がほとんど届かない場所にあった。
まるで時間が止まっているかのような空間。その真ん中に、透明なケースがあり、そこにひとつのレコードが収められていた。
白いジャケット。中央やや上に黒い点。
「Vacuum No.5」と手書きで記されていた。
彼女がケースに触れた瞬間、図書館全体がかすかに揺れた。棚の本たちがざわめき、天井のライトが一瞬だけ点滅した。そして、ふたりの足元に、あの“沈む感覚”が戻ってきた。
レコードが再生される前から、彼女はもう目を閉じていた。
彼女の記憶が、彼女自身よりも先に再生を始めたのだ。
回想——Vacuum No.5
…その場所は、音のない浜辺だった。
彼女は一人の少年と並んで座っていた。背後には無数のレコードが砂に埋まっている。
少年は、黙ったまま一枚のレコードを取り出していた。
「忘れないで」と少年は言った。
「僕がいなくなっても、君の中には僕が残る。
でも君がいなくなったら、僕はもう、誰の中にもいられなくなる」
その瞬間、風が吹いた。
レコードが砂の中へと引きずりこまれるように沈み、少年もまた、静かに消えていった。
図書館・現在
彼女が目を開けたとき、頬を一筋の涙が伝っていた。
「私、誰かを忘れたんじゃない。私の中に誰かが……閉じ込められていたの」
「Vacuum Projectは、記憶を記録するのではなく、記憶の中に誰かを“保管”するための実験だった」
僕は、その“誰か”が彼女にとって、どれだけ大きな存在だったのかを思った。
そして同時に、自分の中にも何かが失われていたような感覚に包まれていた。
「次は6枚目だね」
彼女は静かに言った。
「そこには、声が残っているはず。まだ、消えてないなら」
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