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第六章:失われたトラック
僕たちは夜の図書館を後にして、そのまま朝まで言葉を交わさなかった。
空はじわじわと色を変えながら、東京の輪郭を浮かび上がらせていった。
まるで長い夢が明けきらず、どこかにまだ眠気の残り香が漂っているような朝だった。
彼女はコーヒーを飲みながら、窓の外をじっと見ていた。
カーテン越しに射し込む光の中で、彼女の指先が震えていたのを、僕は見逃さなかった。
「声が、聞こえたの」
彼女がぽつりと口を開いた。
「図書館の中で、No.5に触れたとき。遠くから、微かに……誰かの声。私の名前を呼んでた。でも、思い出せなかった。どんな声だったのかも、誰だったのかも。ただ、ものすごく懐かしかった。……その人のことを、忘れたくなかったって気持ちだけは残ってた」
彼女は目を伏せたまま、もう一口、冷めたコーヒーを口にした。
「6枚目のレコードには、“声”が残ってるはずだよね」
僕が訊ねると、彼女は静かにうなずいた。
「無音のコレクターが言ってた。唯一、記録に成功した“人の声”があるって。ある場所に保管されてるって」
「どこ?」
「記憶療養施設。今はもう閉鎖された“思考衛生院”」
その施設は、郊外の山のふもとにひっそりと佇んでいた。
Googleマップには載っていない。住所も記録もない。ただ、“行けばわかる”と彼女は言った。
道中、彼女はほとんど喋らなかった。
カーステレオからは、チック・コリアのピアノが流れていた。旋律はなぜか、さっきまで聴いていた彼女の声に似ていた。
療養院は、廃墟というよりも“時を止めた建物”のようだった。
壁のペンキは剥がれ、窓は曇っているのに、なぜか埃ひとつ落ちていない。
まるでずっと誰かがここを“記憶の中”で保っていたかのように。
ロビーの奥に、レコード室があった。
そこには、鉄製の保管棚が並んでいて、それぞれに番号が振られていた。
「No.6」は、棚の一番奥、棚の裏に隠れるようにひっそりと置かれていた。
僕たちはそれを持ち帰り、アパートに戻ってから再生することにした。
再生:Vacuum No.6
針を落とした瞬間、ノイズが走った。
ザーッという音の後に、沈黙。
そして──声が、流れ始めた。
それは、男性の声だった。柔らかく、どこか懐かしい響きがあった。
「聞こえているなら……君がまだ、この世界にいるなら……」
「どうか、思い出して。僕はここにいる。君の奥の奥、眠っている扉の向こうで」
「君を閉じ込めたのは、僕かもしれない。でも、君を守りたかった。君があまりにも強く、忘れたがっていたから」
「これは約束だった。君が“忘れてくれたら”、僕は君の中で眠る。それでいいはずだった。……でも、君がまた探し始めた」
「そのときは……思い出してもいいんだ。僕の名前は──」
ノイズ。
声が消えた。
一瞬、部屋の空気がすべて沈黙に包まれた。
「……知ってる」
彼女がぽつりと呟いた。
「この声……私、知ってる」
彼女の瞳が揺れていた。何かが、確かに彼女の奥から目を覚ましかけていた。
「でも、名前が出てこない。顔も……思い出せない」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「ここにいるのに。ずっと、ここにいるのに」
僕たちは夜の図書館を後にして、そのまま朝まで言葉を交わさなかった。
空はじわじわと色を変えながら、東京の輪郭を浮かび上がらせていった。
まるで長い夢が明けきらず、どこかにまだ眠気の残り香が漂っているような朝だった。
彼女はコーヒーを飲みながら、窓の外をじっと見ていた。
カーテン越しに射し込む光の中で、彼女の指先が震えていたのを、僕は見逃さなかった。
「声が、聞こえたの」
彼女がぽつりと口を開いた。
「図書館の中で、No.5に触れたとき。遠くから、微かに……誰かの声。私の名前を呼んでた。でも、思い出せなかった。どんな声だったのかも、誰だったのかも。ただ、ものすごく懐かしかった。……その人のことを、忘れたくなかったって気持ちだけは残ってた」
彼女は目を伏せたまま、もう一口、冷めたコーヒーを口にした。
「6枚目のレコードには、“声”が残ってるはずだよね」
僕が訊ねると、彼女は静かにうなずいた。
「無音のコレクターが言ってた。唯一、記録に成功した“人の声”があるって。ある場所に保管されてるって」
「どこ?」
「記憶療養施設。今はもう閉鎖された“思考衛生院”」
その施設は、郊外の山のふもとにひっそりと佇んでいた。
Googleマップには載っていない。住所も記録もない。ただ、“行けばわかる”と彼女は言った。
道中、彼女はほとんど喋らなかった。
カーステレオからは、チック・コリアのピアノが流れていた。旋律はなぜか、さっきまで聴いていた彼女の声に似ていた。
療養院は、廃墟というよりも“時を止めた建物”のようだった。
壁のペンキは剥がれ、窓は曇っているのに、なぜか埃ひとつ落ちていない。
まるでずっと誰かがここを“記憶の中”で保っていたかのように。
ロビーの奥に、レコード室があった。
そこには、鉄製の保管棚が並んでいて、それぞれに番号が振られていた。
「No.6」は、棚の一番奥、棚の裏に隠れるようにひっそりと置かれていた。
僕たちはそれを持ち帰り、アパートに戻ってから再生することにした。
再生:Vacuum No.6
針を落とした瞬間、ノイズが走った。
ザーッという音の後に、沈黙。
そして──声が、流れ始めた。
それは、男性の声だった。柔らかく、どこか懐かしい響きがあった。
「聞こえているなら……君がまだ、この世界にいるなら……」
「どうか、思い出して。僕はここにいる。君の奥の奥、眠っている扉の向こうで」
「君を閉じ込めたのは、僕かもしれない。でも、君を守りたかった。君があまりにも強く、忘れたがっていたから」
「これは約束だった。君が“忘れてくれたら”、僕は君の中で眠る。それでいいはずだった。……でも、君がまた探し始めた」
「そのときは……思い出してもいいんだ。僕の名前は──」
ノイズ。
声が消えた。
一瞬、部屋の空気がすべて沈黙に包まれた。
「……知ってる」
彼女がぽつりと呟いた。
「この声……私、知ってる」
彼女の瞳が揺れていた。何かが、確かに彼女の奥から目を覚ましかけていた。
「でも、名前が出てこない。顔も……思い出せない」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「ここにいるのに。ずっと、ここにいるのに」
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