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終わり
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「……行ってみますか?」
彼女はコースターの上に指を滑らせながら、そう言った。
「どこへ?」
「時間の外側へ。
私たちが普段いるこの時間の流れじゃない場所。
誰も追ってこないし、誰にも見つからない。
そこには時計がない。」
「……そんな場所、本当にあるんですか?」
「信じるかどうかじゃなくて、“行けるかどうか”です。」
彼女は立ち上がると、カウンターの端に置かれた古びたドアを指差した。
そこは従業員用の倉庫に見えたけれど、僕は何かが違うことに気づいた。
店に入ってから一度も目に入っていなかった。まるでそこだけ、時間の影に隠れていたように。
「ここから先は、正確には“場所”じゃないんです。
もっと曖昧なもの。イメージのような、感情の残像のようなもの。
でも、ちゃんと“そこにいる”感覚はある。大丈夫、こわくはない。」
僕は立ち上がり、彼女の後をついていった。
青いドアの内側にある、さらに小さな木の扉。
彼女がそれをそっと押すと、そこには——
何もなかった。
空間とも言えない空間。
色彩とも呼べない淡い光。
音はしていないのに、どこかで水が流れている気配がある。
僕たちは、そこに“いた”。
立っていたのか、漂っていたのか、座っていたのかも定かではない。
でも、確かに彼女は隣にいた。音もなく、気配だけがあった。
「ここが、“時間の外”?」
僕は訊いたつもりだった。けれど声は出ていなかった。
すると、彼女の声が心の中に静かに響いた。
「そう。ここには“今”しかないの。
過去も未来も、ここでは全部同じ強さで、同じ温度で存在している。
それを“感じる”ことができるのは、すごく稀なこと。
あなたが今日ここに来たのは、たぶん、それを思い出すため。」
「思い出す?」
「ええ。
あなたも昔は、時間の外にいたのよ。
子供のころ。
空をぼんやり見て、意味もなく泣いた日。
誰にも見せなかった小さな夢の中。
そういう時間は、いつもここから流れ出してる。」
その瞬間、不思議な感覚が全身を通り抜けた。
ある記憶が、突然蘇った。
それは僕がまだ六歳だったころの、夏の午後。
祖母の家の縁側で、風鈴が鳴っていた。
僕はスイカを食べながら、ただじっと、時間の流れを感じていた。
あれは「懐かしい過去」じゃない。
あのとき僕は、確かに“時間の外”にいたのだ。
「……でも、なぜ僕はそれを忘れたんだろう?」
「大人になると、必要なくなるから。
社会は“直線的な時間”の上にできてる。
忘れることは、ある意味では生きることと同じ。
でも時々、それを思い出す人がいる。」
「そしてね、その人たちだけが、もう一度問うの。
“本当にこのままでいいのか?”って。」
「僕は……」
何かを言いかけたとき、世界がふっと揺らいだ。
ジャズの残響が、遠くから戻ってきた。
コルトレーンの「Naima」が、また流れていた。
僕は気がつくと、元のジャズ喫茶「Rondo」のカウンター席に座っていた。
目の前には氷がすっかり溶けたアイスコーヒー。
時計を見ると、まだ午後3時を5分ほど過ぎたばかりだった。
彼女の姿はなかった。
けれど、テーブルの上に小さな紙ナプキンが一枚置いてあった。
そこにはこう書かれていた。
「時間は“感じるもの”であって、“使うもの”じゃない。
またいつか、水曜日の午後に。」
そして、猫の絵。
あの、灰色の疲れた顔をした猫だった。
END
彼女はコースターの上に指を滑らせながら、そう言った。
「どこへ?」
「時間の外側へ。
私たちが普段いるこの時間の流れじゃない場所。
誰も追ってこないし、誰にも見つからない。
そこには時計がない。」
「……そんな場所、本当にあるんですか?」
「信じるかどうかじゃなくて、“行けるかどうか”です。」
彼女は立ち上がると、カウンターの端に置かれた古びたドアを指差した。
そこは従業員用の倉庫に見えたけれど、僕は何かが違うことに気づいた。
店に入ってから一度も目に入っていなかった。まるでそこだけ、時間の影に隠れていたように。
「ここから先は、正確には“場所”じゃないんです。
もっと曖昧なもの。イメージのような、感情の残像のようなもの。
でも、ちゃんと“そこにいる”感覚はある。大丈夫、こわくはない。」
僕は立ち上がり、彼女の後をついていった。
青いドアの内側にある、さらに小さな木の扉。
彼女がそれをそっと押すと、そこには——
何もなかった。
空間とも言えない空間。
色彩とも呼べない淡い光。
音はしていないのに、どこかで水が流れている気配がある。
僕たちは、そこに“いた”。
立っていたのか、漂っていたのか、座っていたのかも定かではない。
でも、確かに彼女は隣にいた。音もなく、気配だけがあった。
「ここが、“時間の外”?」
僕は訊いたつもりだった。けれど声は出ていなかった。
すると、彼女の声が心の中に静かに響いた。
「そう。ここには“今”しかないの。
過去も未来も、ここでは全部同じ強さで、同じ温度で存在している。
それを“感じる”ことができるのは、すごく稀なこと。
あなたが今日ここに来たのは、たぶん、それを思い出すため。」
「思い出す?」
「ええ。
あなたも昔は、時間の外にいたのよ。
子供のころ。
空をぼんやり見て、意味もなく泣いた日。
誰にも見せなかった小さな夢の中。
そういう時間は、いつもここから流れ出してる。」
その瞬間、不思議な感覚が全身を通り抜けた。
ある記憶が、突然蘇った。
それは僕がまだ六歳だったころの、夏の午後。
祖母の家の縁側で、風鈴が鳴っていた。
僕はスイカを食べながら、ただじっと、時間の流れを感じていた。
あれは「懐かしい過去」じゃない。
あのとき僕は、確かに“時間の外”にいたのだ。
「……でも、なぜ僕はそれを忘れたんだろう?」
「大人になると、必要なくなるから。
社会は“直線的な時間”の上にできてる。
忘れることは、ある意味では生きることと同じ。
でも時々、それを思い出す人がいる。」
「そしてね、その人たちだけが、もう一度問うの。
“本当にこのままでいいのか?”って。」
「僕は……」
何かを言いかけたとき、世界がふっと揺らいだ。
ジャズの残響が、遠くから戻ってきた。
コルトレーンの「Naima」が、また流れていた。
僕は気がつくと、元のジャズ喫茶「Rondo」のカウンター席に座っていた。
目の前には氷がすっかり溶けたアイスコーヒー。
時計を見ると、まだ午後3時を5分ほど過ぎたばかりだった。
彼女の姿はなかった。
けれど、テーブルの上に小さな紙ナプキンが一枚置いてあった。
そこにはこう書かれていた。
「時間は“感じるもの”であって、“使うもの”じゃない。
またいつか、水曜日の午後に。」
そして、猫の絵。
あの、灰色の疲れた顔をした猫だった。
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