猫とジャズ

ドルドレオン

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最終章

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第五章:今日という名前の部屋

赤いカーディガンの女性が持ってきてくれたのは、カフェオレだった。
ミルクの泡がやわらかく、表面にはスプーンで描いた小さな渦が浮かんでいる。

「ジャズ、お好きなんですか?」

彼女が言った。
声は低めで、少し乾いていた。でも、その響きにはどこか耳なじみのある優しさがあった。

「ええ。昔からずっと」

「さっき、マイルスの『It Never Entered My Mind』が流れてたでしょう?
あれ、父が好きだった曲なんです。思い出して、少し泣きそうになりました」

僕はうなずいた。

「それは、悪い思い出?」

「ううん、いい思い出。でも、少しだけ切ないのは、どうしてでしょうね。
“いい記憶”って、どうしてこんなにも胸を締めつけるんでしょう」

その問いに、僕はすぐに答えられなかった。

でも、たぶん、それは記憶が「過去にしか存在できない」からだ。
二度と触れられない場所にあるからこそ、心はそれを何度も抱きしめ直す。

それが、どれほど無駄な行為であっても。

「……きっと、記憶には“温度”があるんだと思います」
僕はそう言った。「冷めたままのものは、苦しくない。でも、少しでも温かさが残っていると、胸が痛む」

彼女は驚いたように僕を見て、少し笑った。

「それ、今、考えました?」

「ええ。たった今」

「なんだか詩人みたい」

その笑顔は、彼女とは違っていた。
でも、その「違い」をちゃんと認識できるくらい、僕はもう過去から帰ってきていた。

コーヒーを飲み終え、ベンチを立ったあと、僕は駅前の古い商店街を歩いた。
変わらない風景と、少しずつ老いていく建物たち。
それでも、今日という時間は、静かに動いていた。

途中、小さな古本屋の前を通ったとき、ショーウィンドウに目をやった。
そこで、見覚えのある背表紙が目に入った。

――『羊をめぐる冒険』

手に取ってページをめくると、なかに何かが挟まっていた。
それは、ポラロイドの写真だった。
屋上のベンチ、コーヒー缶、風に揺れる髪。
十年前の火曜日の光景だ。

でも、その中に――
僕の姿はなかった。

猫だけが、そこにいた。
ベンチの上で、まっすぐこちらを見ていた。

夜、部屋に戻って窓を開けると、秋の風がカーテンを揺らしていた。

部屋の片隅、レコードプレイヤーのそばに、小さなメモが置かれていた。
見覚えのない筆跡。

「今日という部屋に、あなたはちゃんと帰ってこれました。」
――昨日屋

僕はレコードに針を落とした。
流れてきたのは、チェット・ベイカーの『Almost Blue』。

ジャズが流れる。
窓が揺れる。
明日が近づいてくる。

そして、僕は小さく息をついて、明かりを消した。

(了)
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