猫とジャズ

ドルドレオン

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第四章:戻れない時間

僕は、十年前の火曜日の中にいた。
正確に言えば、その火曜日の「終わる前」にいた。

彼女は、僕の目の前にいて、風が髪を揺らしていた。
言葉を選ぶようにして、何かを言おうとしていた。
――そして、やはり言わなかった。

僕は「今の僕」だった。だが、彼女の隣にいるのは「十年前の僕」だ。
僕はただ、それを眺めている。映画の一場面のように。
触れることも、話しかけることもできない。

猫は、屋上の片隅に座っている。
目を細め、遠くを見ている。彼女が消えることも、僕が戻れなくなることも、もう知っているかのように。

「……これで、もういいんじゃない?」
ふいに、後ろから声がした。

振り向くと、昨日屋にいたあの少女が立っていた。
前と同じ、白いワンピース。だけど、今回は少し年をとったように見える。

「君は……」

「昨日を守る者は、必ず昨日からも見られてるのよ」
彼女は、まるで天気の話でもするみたいに言った。
「でも、昨日は住む場所じゃない。見る場所」

「でも……もし、この時間に彼女を引き留められたら」

「じゃあ、その後の十年はどうなるの? 君の今はどこへ行くの?」

僕は答えられなかった。
彼女がいなくなったことで、僕は音楽を始め、旅に出て、本を読んだ。
世界の匂いを集めるみたいに、誰かと話し、また一人になった。

でもそれは、「彼女がいなかった十年」だった。
もし彼女がいたら、別の人生があっただろう。
けれど、今の僕ではなかっただろう。

猫が静かに立ち上がった。

「そろそろ時間よ」少女が言った。「帰る?」

僕は彼女を見た。十年前の彼女は、笑っていた。
その笑顔を見たのは、最後だった。
記憶の中では、いつも彼女は後ろ姿だったのに。

僕は深く息を吸い、もう一度だけ彼女を見て、うなずいた。

「帰ろう」

ドアが開いたとき、ジャズが流れていた。
マイルス・デイヴィス。『It Never Entered My Mind』。
柔らかくて、少し寂しくて、だけど確かな夜の音楽。

外に出ると、猫は消えていた。
少女もいなかった。

代わりに、駅前のベンチに、見覚えのある赤いカーディガンを着た女性が座っていた。

彼女ではなかった。
でも、何かが似ていた。風の中の気配。視線の端の温度。
それだけで、胸が少しだけ苦しくなる。

僕はベンチに腰かけ、ポケットから昨日のレシートを取り出して見た。
日付は、今日になっていた。

「……コーヒー、もう一杯いきますか?」
赤いカーディガンの女性が、不意に言った。

僕は小さく笑ってうなずいた。

「ええ、お願いします。今日のぶんで」
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