猫とジャズ

ドルドレオン

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非常階段は、あの時よりも少し錆びていた気がする。
いや、もしかしたら、それは僕の記憶が古くなっただけかもしれない。
猫は何も言わず、ただ前を歩く。時折こちらを振り返るその目には、時間そのものがにじんでいた。

今回は、ドアにプレートはなかった。
代わりに、小さな貼り紙が貼られていた。

「このドアの向こうは、十年前の火曜日です。」

ノックはしなかった。猫が一度だけ尻尾を振り、僕はドアを開けた。

空気が違った。湿気を含んだ、古いフィルム写真のような匂い。
窓の外には、まだ取り壊されていなかった駅前の古い書店が見える。
街は若く、騒がしく、どこか鈍感だった。僕も、たぶん、同じだった。

そして彼女がいた。

真っ赤なカーディガンに、紺のスカート。ショートカットに切ったばかりの髪。
ビルの屋上で、僕と彼女は缶コーヒーを飲んでいた。
10年前の火曜日。――あの日だ。

「ねえ、たとえばさ」彼女は言った。

「たとえば?」

「私がどこかにいなくなっても、君はちゃんと、日常を続けられる?」

「変なこと言うなよ」と、10年前の僕は笑った。

彼女は少し笑って、空を見た。
その時の目を、僕は覚えている。僕の知らないところにすでに旅立とうとしていた目だ。

僕は、今の僕は、声をかけたかった。

「彼女は君が思っているよりずっと、静かに消えていくんだ」
「その言葉に気づくには、十年かかる」

でも、その時の僕は、ただ笑って、缶コーヒーを飲んだだけだった。

彼女は三日後、突然いなくなった。
メールも、電話も、何も残さず。

何年も、僕は彼女がいなくなった「理由」ばかりを探した。
だけど、それはもう必要ないのかもしれない。
あの火曜日の、たった一言の奥にすべてがあったのだ。

猫が僕の足元で、小さく鳴いた。

そして、僕はふと気づいた。
この部屋――いや、この時間には、「戻る」ためのドアがない。
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