2 / 5
2
しおりを挟む
その夜、僕は眠れなかった。
部屋の中はいつもの通り静かで、壁の時計が小さく時を刻む音だけが、時間がまだ進んでいることを思い出させてくれた。ベッドに横になっても、僕の頭の中では“昨日”が鮮やかに再生され続けていた。
彼女の声。
「あなたが忘れた昨日、ここに保管しておきました。」
あれは一体、なんだったのだろう。夢だったのか?
でも、ポケットには確かに昨日の喫茶店のレシートが入っていた。日付は昨日。だけど、今日の朝には存在していなかったレシートだ。
翌朝、僕は起きてすぐに服を着替え、再び駅前のコーヒーショップに向かった。ジャズはかかっていた。今日はコルトレーンだった。『In A Sentimental Mood』。
猫はいなかった。代わりに、小さな男の子がベンチに座っていて、文庫本を読んでいた。文庫の背表紙には『羊をめぐる冒険』と書いてあった。奇妙な符合だった。
「ねえ、昨日屋って知ってる?」僕は思わず聞いた。
男の子は本から顔を上げて、僕をじっと見た。
「昨日は、昨日だけのものだよ」と彼は言った。
「でも、昨日を忘れた人は?」と僕。
「忘れてしまった人のために、猫が案内するんだよ」と彼は当たり前のように言って、また本に目を落とした。
それから数日、僕は“昨日屋”を探した。あのビルに行っても、最上階には倉庫しかなく、あのドアはなかった。猫の姿も見つからなかった。
まるで、あの午後だけが切り取られた異界だったかのように。
でも、それからというもの、僕の時間の感覚は少しだけ変わった。
忘れていた“昨日”が、ふとした瞬間に戻ってくるようになったのだ。
スーパーの袋を開けたときの匂い、曲のイントロに差し込まれたある手の記憶、誰かの仕草――
そして、ある夜。
僕の部屋の窓辺に、あの猫が戻ってきた。
細長い目で僕を見つめ、しっぽを一度だけ左右に振った。
「また行けるのかい?」
猫は小さく、まるで息を漏らすように鳴いた。
「じゃあ、今度は“十年前の火曜日”にしてくれ」
猫は背を向け、僕は再びそのあとをついていった。
部屋の中はいつもの通り静かで、壁の時計が小さく時を刻む音だけが、時間がまだ進んでいることを思い出させてくれた。ベッドに横になっても、僕の頭の中では“昨日”が鮮やかに再生され続けていた。
彼女の声。
「あなたが忘れた昨日、ここに保管しておきました。」
あれは一体、なんだったのだろう。夢だったのか?
でも、ポケットには確かに昨日の喫茶店のレシートが入っていた。日付は昨日。だけど、今日の朝には存在していなかったレシートだ。
翌朝、僕は起きてすぐに服を着替え、再び駅前のコーヒーショップに向かった。ジャズはかかっていた。今日はコルトレーンだった。『In A Sentimental Mood』。
猫はいなかった。代わりに、小さな男の子がベンチに座っていて、文庫本を読んでいた。文庫の背表紙には『羊をめぐる冒険』と書いてあった。奇妙な符合だった。
「ねえ、昨日屋って知ってる?」僕は思わず聞いた。
男の子は本から顔を上げて、僕をじっと見た。
「昨日は、昨日だけのものだよ」と彼は言った。
「でも、昨日を忘れた人は?」と僕。
「忘れてしまった人のために、猫が案内するんだよ」と彼は当たり前のように言って、また本に目を落とした。
それから数日、僕は“昨日屋”を探した。あのビルに行っても、最上階には倉庫しかなく、あのドアはなかった。猫の姿も見つからなかった。
まるで、あの午後だけが切り取られた異界だったかのように。
でも、それからというもの、僕の時間の感覚は少しだけ変わった。
忘れていた“昨日”が、ふとした瞬間に戻ってくるようになったのだ。
スーパーの袋を開けたときの匂い、曲のイントロに差し込まれたある手の記憶、誰かの仕草――
そして、ある夜。
僕の部屋の窓辺に、あの猫が戻ってきた。
細長い目で僕を見つめ、しっぽを一度だけ左右に振った。
「また行けるのかい?」
猫は小さく、まるで息を漏らすように鳴いた。
「じゃあ、今度は“十年前の火曜日”にしてくれ」
猫は背を向け、僕は再びそのあとをついていった。
0
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢に相応しいエンディング
無色
恋愛
月の光のように美しく気高い、公爵令嬢ルナティア=ミューラー。
ある日彼女は卒業パーティーで、王子アイベックに国外追放を告げられる。
さらには平民上がりの令嬢ナージャと婚約を宣言した。
ナージャはルナティアの悪い評判をアイベックに吹聴し、彼女を貶めたのだ。
だが彼らは愚かにも知らなかった。
ルナティアには、ミューラー家には、貴族の令嬢たちしか知らない裏の顔があるということを。
そして、待ち受けるエンディングを。
最近のよくある乙女ゲームの結末
叶 望
恋愛
なぜか行うことすべてが裏目に出てしまい呪われているのではないかと王妃に相談する。実はこの世界は乙女ゲームの世界だが、ヒロイン以外はその事を知らない。
※小説家になろうにも投稿しています
やり直しの王太子、全力で逃げる
雨野千潤
恋愛
婚約者が男爵令嬢を酷く苛めたという理由で婚約破棄宣言の途中だった。
僕は、気が付けば十歳に戻っていた。
婚約前に全力で逃げるアルフレッドと全力で追いかけるグレン嬢。
果たしてその結末は…
悪意には悪意で
12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。
私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。
ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。
【完結】君は星のかけらのように・・・
彩華(あやはな)
恋愛
君に出会ったのは幼いだったー。
婚約者に学園で出会った一人の女性と。
僕は後悔する。
彼女の幸せを償いたいー。
身勝手な男の話です。
でも、一途な思いでもあります。
4話+1話構成です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる