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金曜日の午後四時。
相変わらず、僕は図書館の四階、窓際の席に座っている。黒いノートを広げ、ミルク入りの缶コーヒーをひとくちすする。
貨物列車は今日は来なかった。代わりに、線路の向こう側の空に、大きな風船のような雲が浮かんでいた。それは少しだけ、誰かの横顔に似ていた。誰の顔だったか、思い出せない。多分、思い出す必要もないのだろう。
便箋はもう二週間現れていない。それでも、僕は毎週金曜日にここにいる。便箋のためというより、自分の中のどこかが、そうした方がいいと告げている。
その日の午後、三人分ほど離れた席に女の人が座った。黒いセーターに、ジーンズ。髪は肩にかかるくらいで、耳にはヘッドフォン。年齢は僕と同じくらいか、少し若いかもしれない。
彼女はカバンから文庫本を取り出し、しばらくページをめくっていたが、ふとした瞬間、僕の方を見た。
その目は、どこか既視感があった。はっきりとではない。まるで夢の中で一度すれ違っただけのような感覚。
僕は目をそらし、またノートを開いた。そこには、見覚えのない行がひとつ、鉛筆で書かれていた。
「猫は君を気に入ってるよ。彼は気まぐれだから、それは珍しいことなんだ。」
僕は少し息をのんだ。文字は、あの便箋と同じ筆跡だった。でも、僕はこのノートを誰にも渡していない。図書館に置き忘れたこともない。そもそも、ページを閉じるたびに、僕は輪ゴムでしっかり留めている。
それなのに、なぜ──。
ふと顔を上げると、彼女はいなかった。席は空っぽで、そこには黒いヘアピンがひとつだけ、ぽつんと置かれていた。
僕は立ち上がり、彼女がいた席まで行って、そのヘアピンを手に取った。冷たくもなく、温かくもなかった。ただ、まるでそれが「ここにいた」という唯一の証拠であるかのように、静かにそこにあった。
その夜、僕は久しぶりに夢を見た。
夢の中で、僕はまたあの階段を降りていた。今度は猫が僕の後ろをついてきた。
猫は銀色の体をしていて、尾の先だけが黒かった。
階段の下には小さな扉があり、その前に、黒いセーターの彼女が立っていた。彼女は僕を見ると、微笑んだ。
「間に合ってよかった」と、彼女は言った。「この物語はまだ途中だから。」
「物語?」
彼女は扉の鍵を開けながらうなずいた。
「世界には、物語にならなかったまま、忘れ去られた言葉がたくさんあるの。私たちはそれを拾い集めて、もう一度語り直してるの。あなたのノートも、その一部よ。」
扉の向こうは、図書館ではなかった。深く、やわらかく、どこか懐かしい匂いがする、見たこともない場所だった。
目が覚めたとき、僕のノートには新しい一文が書き加えられていた。
「続けて。まだ終わってないから。」
そして、そのページの端には、小さな銀色の猫のシールが貼られていた。
相変わらず、僕は図書館の四階、窓際の席に座っている。黒いノートを広げ、ミルク入りの缶コーヒーをひとくちすする。
貨物列車は今日は来なかった。代わりに、線路の向こう側の空に、大きな風船のような雲が浮かんでいた。それは少しだけ、誰かの横顔に似ていた。誰の顔だったか、思い出せない。多分、思い出す必要もないのだろう。
便箋はもう二週間現れていない。それでも、僕は毎週金曜日にここにいる。便箋のためというより、自分の中のどこかが、そうした方がいいと告げている。
その日の午後、三人分ほど離れた席に女の人が座った。黒いセーターに、ジーンズ。髪は肩にかかるくらいで、耳にはヘッドフォン。年齢は僕と同じくらいか、少し若いかもしれない。
彼女はカバンから文庫本を取り出し、しばらくページをめくっていたが、ふとした瞬間、僕の方を見た。
その目は、どこか既視感があった。はっきりとではない。まるで夢の中で一度すれ違っただけのような感覚。
僕は目をそらし、またノートを開いた。そこには、見覚えのない行がひとつ、鉛筆で書かれていた。
「猫は君を気に入ってるよ。彼は気まぐれだから、それは珍しいことなんだ。」
僕は少し息をのんだ。文字は、あの便箋と同じ筆跡だった。でも、僕はこのノートを誰にも渡していない。図書館に置き忘れたこともない。そもそも、ページを閉じるたびに、僕は輪ゴムでしっかり留めている。
それなのに、なぜ──。
ふと顔を上げると、彼女はいなかった。席は空っぽで、そこには黒いヘアピンがひとつだけ、ぽつんと置かれていた。
僕は立ち上がり、彼女がいた席まで行って、そのヘアピンを手に取った。冷たくもなく、温かくもなかった。ただ、まるでそれが「ここにいた」という唯一の証拠であるかのように、静かにそこにあった。
その夜、僕は久しぶりに夢を見た。
夢の中で、僕はまたあの階段を降りていた。今度は猫が僕の後ろをついてきた。
猫は銀色の体をしていて、尾の先だけが黒かった。
階段の下には小さな扉があり、その前に、黒いセーターの彼女が立っていた。彼女は僕を見ると、微笑んだ。
「間に合ってよかった」と、彼女は言った。「この物語はまだ途中だから。」
「物語?」
彼女は扉の鍵を開けながらうなずいた。
「世界には、物語にならなかったまま、忘れ去られた言葉がたくさんあるの。私たちはそれを拾い集めて、もう一度語り直してるの。あなたのノートも、その一部よ。」
扉の向こうは、図書館ではなかった。深く、やわらかく、どこか懐かしい匂いがする、見たこともない場所だった。
目が覚めたとき、僕のノートには新しい一文が書き加えられていた。
「続けて。まだ終わってないから。」
そして、そのページの端には、小さな銀色の猫のシールが貼られていた。
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