6 / 6
終わり
しおりを挟む
翌朝、女ははやくに目を覚ました。
窓を開けると、夜のあいだにまた雪が降ったらしい。中庭の苔も、飛び石も、きれいに覆われていた。
白椿は、もうなかった。
昨夜、湯で出会った女の姿も、すでにどこにも見えなかった。
帳場で尋ねても、「お一人でお越しのお客様は、あなた様だけでございます」と女将は首を傾げていた。
あの声も、あの眼差しも、夢だったのか──
けれど確かに、彼女は自分の過去を知っていた。母の声に重なるような響きで、白椿のことを言った。
女は、宿の外に出た。
雪の中を、ただ音もなく歩いた。杉の木立を越え、山をすこし下りたところに、小さな寺がある。
昔、母と訪れた場所だった。まだ女が七つのとき、一度だけ一緒に来た記憶がある。
本堂の前には、ひと抱えほどの椿の木がある。
そしてそこに、たった一輪、白椿が咲いていた。誰にも見られることなく、ひっそりと。
女は、雪を踏んでその前に立った。
冷たい風が、髪を撫でる。目を閉じると、母の声がするようだった。
──「人は忘れることで、生きていくものなのよ。でも、忘れられないものがあるのも、幸せなの」
その言葉が、なぜか胸にふわりと落ちた。
あの湯で出会った女は、母の記憶がこの世にもう一度現れたものだったのかもしれない。
あるいは、自分自身のなかにある、母への未練が、あの女の姿を借りて現れたのかもしれない。
どちらでもよかった。
椿は咲いて、そして落ちる。音もなく、誰に告げることもなく。
女は、白椿にそっと頭を下げた。
そのとき、頬を一筋、涙がこぼれた。
もう涙を隠す必要はなかった。誰もいない山の静けさが、その涙をやさしく包んでくれた。
ふと見上げると、空が少しだけ明るくなっていた。
雲の切れ間から、淡い日差しが差し込み、椿の花びらに触れた。
白が、ほんのわずかに透けて、薄紅のように見えた。
(了)
窓を開けると、夜のあいだにまた雪が降ったらしい。中庭の苔も、飛び石も、きれいに覆われていた。
白椿は、もうなかった。
昨夜、湯で出会った女の姿も、すでにどこにも見えなかった。
帳場で尋ねても、「お一人でお越しのお客様は、あなた様だけでございます」と女将は首を傾げていた。
あの声も、あの眼差しも、夢だったのか──
けれど確かに、彼女は自分の過去を知っていた。母の声に重なるような響きで、白椿のことを言った。
女は、宿の外に出た。
雪の中を、ただ音もなく歩いた。杉の木立を越え、山をすこし下りたところに、小さな寺がある。
昔、母と訪れた場所だった。まだ女が七つのとき、一度だけ一緒に来た記憶がある。
本堂の前には、ひと抱えほどの椿の木がある。
そしてそこに、たった一輪、白椿が咲いていた。誰にも見られることなく、ひっそりと。
女は、雪を踏んでその前に立った。
冷たい風が、髪を撫でる。目を閉じると、母の声がするようだった。
──「人は忘れることで、生きていくものなのよ。でも、忘れられないものがあるのも、幸せなの」
その言葉が、なぜか胸にふわりと落ちた。
あの湯で出会った女は、母の記憶がこの世にもう一度現れたものだったのかもしれない。
あるいは、自分自身のなかにある、母への未練が、あの女の姿を借りて現れたのかもしれない。
どちらでもよかった。
椿は咲いて、そして落ちる。音もなく、誰に告げることもなく。
女は、白椿にそっと頭を下げた。
そのとき、頬を一筋、涙がこぼれた。
もう涙を隠す必要はなかった。誰もいない山の静けさが、その涙をやさしく包んでくれた。
ふと見上げると、空が少しだけ明るくなっていた。
雲の切れ間から、淡い日差しが差し込み、椿の花びらに触れた。
白が、ほんのわずかに透けて、薄紅のように見えた。
(了)
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
カモフラージュの恋
湖月もか
恋愛
容姿端麗、文武両道、しかも性格までよし。まるで少女漫画の王子様のような幼馴染な彼。
当たり前だが、彼は今年も囲まれている。
そんな集団を早く終わらないかなと、影から見ている私の話。
※あさぎかな様に素敵な表紙を作成していただきました!
あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。
“妖精なんていない”と笑った王子を捨てた令嬢、幼馴染と婚約する件
大井町 鶴(おおいまち つる)
恋愛
伯爵令嬢アデリナを誕生日嫌いにしたのは、当時恋していたレアンドロ王子。
彼がくれた“妖精のプレゼント”は、少女の心に深い傷を残した。
(ひどいわ……!)
それ以来、誕生日は、苦い記憶がよみがえる日となった。
幼馴染のマテオは、そんな彼女を放っておけず、毎年ささやかな贈り物を届け続けている。
心の中ではずっと、アデリナが誕生日を笑って迎えられる日を願って。
そして今、アデリナが見つけたのは──幼い頃に書いた日記。
そこには、祖母から聞いた“妖精の森”の話と、秘密の地図が残されていた。
かつての記憶と、埋もれていた小さな願い。
2人は、妖精の秘密を確かめるため、もう一度“あの場所”へ向かう。
切なさと幸せ、そして、王子へのささやかな反撃も絡めた、癒しのハッピーエンド・ストーリー。
伯爵令嬢の苦悩
夕鈴
恋愛
伯爵令嬢ライラの婚約者の趣味は婚約破棄だった。
婚約破棄してほしいと願う婚約者を宥めることが面倒になった。10回目の申し出のときに了承することにした。ただ二人の中で婚約破棄の認識の違いがあった・・・。
上手に騙してくださらなかった伯爵様へ
しきど
恋愛
アイルザート・ルテシオ伯爵は十七歳で家督を継いだ方だ。
文武両道、容姿端麗、人柄も良く領民の誰からも愛される方だった。そんな若き英雄の婚約者に選ばれたメリッサ・オードバーン子爵令嬢は、自身を果報者と信じて疑っていなかった。
彼が屋敷のメイドと関係を持っていると知る事になる、その時までは。
貴族に愛人がいる事など珍しくもない。そんな事は分かっているつもりだった。分かっていてそれでも、許せなかった。
メリッサにとってアイルザートは、本心から愛した人だったから。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる