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その夜、また湯に入った。
宿の内湯は岩づくりで、窓を開けると山の空気が冷たく流れ込む。白く立ちのぼる湯気のなか、静かに湯に身を沈めると、ふっと、あの女がまたいた。
昨日と同じ位置、同じ姿勢で湯のなかにいる。
肌は陶器のように白く、首筋には小さな黒子があった。その細い背中が、なぜかやけに懐かしいと思った。
目が合った。
女はにこりともせず、ただ目で微かに笑ったように見えた。
その一瞬、まるで昔見た夢が、今ここに現れているような錯覚に包まれた。
「……寒い夜ですね」
女が静かに言った。声は細く、それでいて確かだった。
彼女の言葉に、主人公は答えるまでに少し間を置いた。
「ええ。……でも、懐かしい寒さです」
その言葉を口にして、自分でも驚いた。
“懐かしい寒さ”とは何だろう。けれど、その夜気には、かつての母の匂いが、どこか紛れているような気がした。
ふたりのあいだに、湯気がふわりと立ち込めた。
その向こうで女は言った。
「小さな頃、白い椿を見たことがあるでしょう。雪の日に」
女の目は、湯のなかではなく、まっすぐ主人公の目を見ていた。
「どうしてそれを……?」
問いかけたが、女はもう、それ以上答えなかった。ただ、湯から立ち上がり、濡れた髪を手で払うと、岩の向こうへと消えていった。
湯の表面に、彼女が残した水のゆらめきだけが、長く続いた。
主人公は湯のなかで目を閉じた。
音のない雪が、再び中庭を包んでいる気配があった。
そして胸の奥に、ぽたりと、もうひとつの椿が落ちる音がした。
宿の内湯は岩づくりで、窓を開けると山の空気が冷たく流れ込む。白く立ちのぼる湯気のなか、静かに湯に身を沈めると、ふっと、あの女がまたいた。
昨日と同じ位置、同じ姿勢で湯のなかにいる。
肌は陶器のように白く、首筋には小さな黒子があった。その細い背中が、なぜかやけに懐かしいと思った。
目が合った。
女はにこりともせず、ただ目で微かに笑ったように見えた。
その一瞬、まるで昔見た夢が、今ここに現れているような錯覚に包まれた。
「……寒い夜ですね」
女が静かに言った。声は細く、それでいて確かだった。
彼女の言葉に、主人公は答えるまでに少し間を置いた。
「ええ。……でも、懐かしい寒さです」
その言葉を口にして、自分でも驚いた。
“懐かしい寒さ”とは何だろう。けれど、その夜気には、かつての母の匂いが、どこか紛れているような気がした。
ふたりのあいだに、湯気がふわりと立ち込めた。
その向こうで女は言った。
「小さな頃、白い椿を見たことがあるでしょう。雪の日に」
女の目は、湯のなかではなく、まっすぐ主人公の目を見ていた。
「どうしてそれを……?」
問いかけたが、女はもう、それ以上答えなかった。ただ、湯から立ち上がり、濡れた髪を手で払うと、岩の向こうへと消えていった。
湯の表面に、彼女が残した水のゆらめきだけが、長く続いた。
主人公は湯のなかで目を閉じた。
音のない雪が、再び中庭を包んでいる気配があった。
そして胸の奥に、ぽたりと、もうひとつの椿が落ちる音がした。
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