猫とバーボン

ドルドレオン

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電車は南へ向かっていた。
どこかで海が近づいているのが分かった。潮の匂いが風に混じり、車両のガラスが少し曇ってきた。僕は座席に体を沈め、ポケットからナプキンを取り出して広げた。紙の折り目は少し擦り切れていて、まるで時間を吸い込んでしまった古地図のようだった。

海の底には図書館があります。
そこにいる猫は、もう言葉を忘れかけています。
また会えたらいいですね。

「また会えたらいいですね」。
その言葉が頭の中で何度もこだました。たぶん、あれは彼女の願いというより、条件だったのだと思う。偶然ではなく、意志のある「再会」のために、何かを越える必要がある。

終点の駅で降りると、小さな港町だった。人影は少なく、潮風とカモメの声だけが辺りに漂っていた。港のそばにある古びたカフェに入ると、壁に1980年代のジャズミュージシャンのポスターが何枚も貼ってあった。

カウンターにいた年配の女性が、僕の顔を一度見てから、何も言わずにアイスコーヒーを出した。
「ここに、海の底の図書館を知ってる人はいませんか?」
僕がそう聞くと、彼女はすこしだけ笑って言った。

「そういう場所に行ける人は、自分で行き方を見つけるものよ」



夕方、海沿いを歩いていると、小さな桟橋に猫が座っていた。
ナカタだった。間違いようがない。けれど、彼の目は僕を見なかった。まるで、すでに別の世界に半分足を踏み入れているようだった。

「ここまで来たんだな」と、ナカタは言った。
確かに聞こえた。それは音というより、心の奥に届く声だった。

「君は言葉を忘れかけているんじゃなかったのか」
「全部忘れる前に、ひとつだけ伝えておきたかったんだ」

「何を?」

「そこに行くには、何か大事なものを手放す必要がある。記憶とか、愛とか、あるいは名前かもしれない。君にとって、本当に大事なものはなんだ?」

僕はすぐには答えられなかった。
バーボンの瓶、古いレコード、言葉を話す猫、赤い傘の女の子──
どれも大事な気がしたが、それが「本当に大事」なのかは分からなかった。

「それが分かったとき、図書館の入り口が見える」
ナカタはそう言い残し、ゆっくりと桟橋の先へ歩いていき、そして水の中に静かに身を沈めた。波紋ひとつ残さず、彼は消えた。



夜がきた。
僕は浜辺に座って、バーボンを飲みながら、ビル・エヴァンスの「Nardis」をスマートフォンで流した。海は暗く、どこかでチェロの音が響いている気がした。

空には月が出ていた。薄く、ぼんやりとした輪郭で。

僕はポケットから紙ナプキンを取り出し、もう一度だけ読んだ。
「また会えたらいいですね」。
そう書かれていたはずの言葉が、少しだけ違って見えた。

また会いたいと、願ってくれたらいいですね。

僕はそっとそれを海に流した。
波に乗って遠ざかっていく白い紙は、月の光を反射しながら、まるで灯台のようにゆらゆらと揺れていた。

そのとき、海の向こうに小さな建物が見えた。
水面に浮かぶ、深い群青色の図書館だった。
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