猫とバーボン

ドルドレオン

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10

図書館の建物は、海の上に浮かんでいた。
もしくは、海そのものが建物の形をとったのかもしれない。
近づいても、音はしなかった。波の音も、風の音も。
ただ、耳鳴りのような静けさが辺りに満ちていた。

僕は靴を脱いで海に入った。水は思ったよりも温かく、膝のあたりまで浸かると、突然、重力が反転したような感覚に襲われた。
身体が下へ沈む代わりに、ゆっくりと「上へ」落ちていく。
気づけば僕は、海の底ではなく、「図書館の中」にいた。

天井が高く、空気は乾いていた。
無数の書棚が静かに並んでいて、どれも古い木でできていた。
光源は見えなかったが、部屋はかすかに青白く照らされていた。

「いらっしゃい」
声がして、僕は振り返った。

そこにいたのは、ユリコだった。
赤い傘も、真珠のピアスもしていなかった。
ただ、黒いワンピースを着て、裸足で立っていた。

「ここに来るの、もっと時間がかかると思ってた」
「僕もそう思ってた」
「でも、あなたは大事なものを手放した」

僕は答えた。「たぶん、名前だと思う」

彼女はうなずいた。「じゃあ、ここではもう名乗らなくていいわ」

11

図書館の中央には、大きなガラスのドームがあり、その中に1冊だけ本が置かれていた。
表紙には何も書かれていなかった。

「これが、最後の本なの」
ユリコが言った。「あなたの物語が書かれている」

「もう全部読まれてしまっているのか?」
「いいえ。まだ、続きが白紙になってる」

僕はその本に手を伸ばした。
指が触れた瞬間、ページが音もなく開いた。

そこには、こう書かれていた。

彼は、再び猫に出会う。
猫はもう言葉を忘れているが、その目はすべてを覚えている。

「ナカタはここに?」
ユリコは小さく微笑んだ。

「彼は今、ここの司書よ。でももう喋らない。
でも大丈夫、言葉じゃない方法で、すべてを伝えることができる」

そのとき、どこか遠くでチェロの音が聞こえた。
水の中から響いてくるような、深くて、柔らかい音だった。
ユリコはそれに耳を澄まし、静かに言った。

「そろそろ、目を覚ます時間ね」
「目を覚ます?」
「ここは夢の一部。でも夢が本物じゃないとは限らない」

僕はうなずいた。言葉を探す必要はなかった。

12

目が覚めると、朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。
部屋にはバーボンの空き瓶と、ターンテーブルの上のレコード。
ストーブの前には、ナカタが座っていた。こちらをじっと見ていた。

「戻ってきたのか?」と僕が言うと、ナカタは何も言わず、静かに瞬きをした。

机の上には、一枚の紙ナプキン。
そこには新しい文字が、赤いインクで書かれていた。

まだ続きを書いてもいいなら、また会いましょう。

僕はそれを手に取り、しばらく眺めたあと、ターンテーブルの針をもう一度落とした。
ビル・エヴァンスの「Nardis」が静かに始まる。

ナカタが、ゆっくりと尻尾を揺らした。

そして僕は、続きを書くことにした。
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