ポストカードと断絶の犬

ドルドレオン

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スロウンはレンタカーで州境を越え、かつてミリタリー・ゾーンB3と呼ばれていた地帯へ向かった。
ナビには表示されない無舗装の道。
エンジンの音が異常に大きく聞こえ、ラジオはただ「shhhh」と砂嵐のような音を吐き続けていた。

周囲に建物はない。ただ、草むらの中に錆びたフェンスと、剥がれかけた標識があった。

「NO ENTRY. OBSERVATION CONDUCTED.
EXISTENCE MAY BE UNSTABLE IN THIS ZONE」

車を降りると、風が一方向にしか吹いていなかった。
空の雲も、一本の白い線に沿って同じ速さで流れていた。

建物は、地下にあった。
地面に口を開けたようなコンクリートの入口。階段を降りると、そこに光があった。人工的な照明ではなく、記憶の光に近い色。かつてそこにいたとき、彼の網膜に焼きついた何かの残照。

扉の前に、ひとりの男が立っていた。
白衣に似たガウン、片手に金属製の測定器、そして口元だけが異常に饒舌そうな顔。

「あなたがスロウン。うん。来るとは思っていた、正確には“来ることが来るだろう”と思っていたという方が正しいかもしれない。ようこそ。ここは“Observation Node 12-C”、かつてそう呼ばれていました。今は……まあ、もう少し詩的な名前で呼ばれてます。“耳のないオーケストラ”とか、“夢の解像度保管庫”とか。どちらにしても、あなたには関係のある場所です」

「……誰なんですか、あなた」

「私は…あなたが忘れた同僚、あるいはまだ思い出していない自分。名前はどうでもいいんです。あなたが私をどう呼ぶか、それで十分。人は他人の名前を思い出すとき、自分の脳の一部を使うんです。つまり、私はあなたの脳の使い方です」

スロウンは黙っていた。
空間がわずかに歪んでいるように感じられた。地面が斜めに傾いているのか、それとも彼の重心がずれているのか。

男は笑いながら、部屋の奥へ手を伸ばした。
「どうぞ、見ていってください。“観測のアーカイブ”です。あなたがかつて記録した、あるいは記録された、未確認観測の残響が詰まっています」

中に入ると、廊下の両側に無数のモニター。
だがどのモニターにも数字や映像は映っていない。代わりに、**過去に誰かが観測した“気配”**が、光のノイズのように流れていた。

「我々はね、見えるものじゃなく、“見られたことのある気配”を記録していたんです。対象物の履歴ではなく、観測という行為そのものの履歴を。
ほら、人間は誰かに見られた瞬間、自分が“存在している”って初めて気づくでしょう? ならば、観測こそが存在の定義なんですよ。私たちはそれを極限まで追求した」

男はひとつのモニターの前に立った。
「ここ、あなたの記録です。1983年8月9日、あなたはアイオワ州のモーテルで、誰にも見られていない夜を過ごした。その“見られていなさ”すら、我々は観測している」

スロウンは背筋を伸ばし、言った。

「何のために? なぜそこまでして観測を?」

男はくすりと笑った。

「目的? ないですよ。あるように振る舞っていただけ。
観測を止めた瞬間に、我々が“存在していない”ことがバレてしまうから。
それに……」

彼はモニターの裏から、小さな装置を取り出した。
それは見た目にはただのトランジスタラジオのようだったが、表面にこう書かれていた。

"D.O.G. – Discontinuity Observation Gear"
断絶の犬™モデル試作一号

「これがあなたのもとに戻るのは、ある種のプロトコル違反なんです。でも、ここまで来たということは、あなたがすでにプロトコル外にいるということ。つまり、夢の中にしか現れない存在が、あなたの現実に侵入している。もう、あっちとこっちの境目は曖昧です」

「“あっち”?」

「夢ですよ。夢ってのはね、“誰かの現実”だったかもしれない構造の抜け殻なんです。観測者がいなくなった瞬間に、記録から“夢”というタグが貼られる。だからこそ、断絶の犬は夢の中にしか現れない。観測されてないから、自由なんです」

スロウンはその装置を受け取った。
少し温かかった。誰かの手のひらに、ずっといたような。

「使い方は?」

男は肩をすくめた。

「使った瞬間から、使ってたことになります。観測はね、時間軸を問いませんから。
ただし、気をつけて。一度観測が始まったら、止められない。あなたの存在が、観測の“燃料”になるから」

そして、男は急に黙った。
部屋の光がひとつ、またひとつ、落ちていく。

スロウンがもう一度問いかけようとしたとき、彼の姿はそこにはなかった。

ただ、床にひとつだけ、手相占いのメモが落ちていた。

「犬の形は、手のひらにではなく、“指の動かし方”に現れる」

スロウンは装置を手にし、階段を上った。
出口に差しかかるとき、どこかで小さな犬の鳴き声が聞こえた。
それは、誰かが観測を開始した合図かもしれなかった。
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