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地下施設のさらに奥には、エレベーターも階段もないのに、スロウンはなぜか「下」へ降りていった。
どこまでも続く回廊。壁一面に無数のスピーカーが埋め込まれていて、そこから声が流れていた。声は人間のものではなく、あらゆる声が混じり合い、折り重なり、自己相似的に反響していた。
「観測は観測を観測する……
記録は記録されることを記録する……
あなたは誰に見られているのか?
見られているあなたは、誰を見ているのか?」
スロウンは、両耳を塞いでも声が頭の中に入り込んできた。
壁に貼られた紙切れには、手相の図が描かれていた。指紋ではなく、線の交差点ごとに小さな犬のイラストが描かれていた。まるで、誰かが手相占いをアルゴリズムに落とし込み、そのアルゴリズムを用いて存在証明を試みているようだった。
突然、目の前の壁が“本”のように割れ、中からひとりの人物が現れた。
白いスーツに、金色の犬のバッジをつけている。顔ははっきりしないのに、声だけがやたらに流暢だった。
「やあ、スロウン。ようこそ、“最終観測域”へ。ここでは時間は線じゃなく、犬のしっぽのように振られている。左へ振られた過去、右へ振られた未来、そして真ん中にある現在は、ただの静止画にすぎない。理解してますか? 理解しなくていい。むしろ、理解してるふりを続けてください。そのほうが観測が安定する」
彼は歩きながら、延々としゃべり続けた。
「あなたは“観測者”ではない、スロウン。あなたは観測装置そのものだ。もっと言えば、あなたが“見た”と信じているものの半分は、あなたが“記録するために存在させた”ものだ。郵便局に棲む犬も、手相占いの男も、サンドイッチ屋の404女も、全部、あなたが観測というエネルギーを流すための自己生成プロキシだ。わかります? いや、わからなくても構わない」
スロウンは何かを言おうとしたが、口が動かなかった。
代わりに、彼の手のひらの犬の線が淡く光っていた。
「その線こそが、あなたの回路です」
白いスーツの男は続ける。
「線は未来から流れてきて過去に溶ける。人間が“運命”と呼ぶものは、じつは観測回路のフィードバックループに過ぎない。あなたは今、夢の裏側にいる。ここでは観測者も被観測者も、同じ言葉を使っておしゃべりする。どちらが話し、どちらが聞くか、その境界はとっくに崩れている」
彼は急に笑った。
その笑い声は、ラジオのチューニング音のように波打ち、空気を震わせた。
「いいですか、スロウン? “断絶の犬”とは、組織の名前ではない。あなたがこの世界に存在するために作り出した観測の癖のことだ。犬は嗅ぐでしょう? 記憶の匂い、見られなかった出来事の匂い、夢の残り香。あなたはそれを嗅ぎ、拾い、記録していた。だから、あなたは犬であり、飼い主でもある」
スロウンの頭の中に、無数のイメージが流れこんできた。
ポストカード、マイルス・デイヴィス、猫のハコニワ、手相占い、ツナサンド、ニュージャージーの廃墟。
全部が糸でつながり、ひとつの巨大な手のひらの線を描いていた。
白いスーツの男が最後にこう言った。
「観測は終わりません。終わることは記録されないからです。
でも、“あなた”が物語を閉じることはできる。
その瞬間にだけ、あなたは観測者でも装置でもなく、ただの“誰か”になれる。
どうしますか、スロウン?」
沈黙が訪れた。
スロウンは、自分の手のひらを見つめた。
犬の形はもうなかった。代わりに、一本の直線だけがあった。
始まりも終わりもない線。
そして彼は、ゆっくりと目を閉じた。
どこまでも続く回廊。壁一面に無数のスピーカーが埋め込まれていて、そこから声が流れていた。声は人間のものではなく、あらゆる声が混じり合い、折り重なり、自己相似的に反響していた。
「観測は観測を観測する……
記録は記録されることを記録する……
あなたは誰に見られているのか?
見られているあなたは、誰を見ているのか?」
スロウンは、両耳を塞いでも声が頭の中に入り込んできた。
壁に貼られた紙切れには、手相の図が描かれていた。指紋ではなく、線の交差点ごとに小さな犬のイラストが描かれていた。まるで、誰かが手相占いをアルゴリズムに落とし込み、そのアルゴリズムを用いて存在証明を試みているようだった。
突然、目の前の壁が“本”のように割れ、中からひとりの人物が現れた。
白いスーツに、金色の犬のバッジをつけている。顔ははっきりしないのに、声だけがやたらに流暢だった。
「やあ、スロウン。ようこそ、“最終観測域”へ。ここでは時間は線じゃなく、犬のしっぽのように振られている。左へ振られた過去、右へ振られた未来、そして真ん中にある現在は、ただの静止画にすぎない。理解してますか? 理解しなくていい。むしろ、理解してるふりを続けてください。そのほうが観測が安定する」
彼は歩きながら、延々としゃべり続けた。
「あなたは“観測者”ではない、スロウン。あなたは観測装置そのものだ。もっと言えば、あなたが“見た”と信じているものの半分は、あなたが“記録するために存在させた”ものだ。郵便局に棲む犬も、手相占いの男も、サンドイッチ屋の404女も、全部、あなたが観測というエネルギーを流すための自己生成プロキシだ。わかります? いや、わからなくても構わない」
スロウンは何かを言おうとしたが、口が動かなかった。
代わりに、彼の手のひらの犬の線が淡く光っていた。
「その線こそが、あなたの回路です」
白いスーツの男は続ける。
「線は未来から流れてきて過去に溶ける。人間が“運命”と呼ぶものは、じつは観測回路のフィードバックループに過ぎない。あなたは今、夢の裏側にいる。ここでは観測者も被観測者も、同じ言葉を使っておしゃべりする。どちらが話し、どちらが聞くか、その境界はとっくに崩れている」
彼は急に笑った。
その笑い声は、ラジオのチューニング音のように波打ち、空気を震わせた。
「いいですか、スロウン? “断絶の犬”とは、組織の名前ではない。あなたがこの世界に存在するために作り出した観測の癖のことだ。犬は嗅ぐでしょう? 記憶の匂い、見られなかった出来事の匂い、夢の残り香。あなたはそれを嗅ぎ、拾い、記録していた。だから、あなたは犬であり、飼い主でもある」
スロウンの頭の中に、無数のイメージが流れこんできた。
ポストカード、マイルス・デイヴィス、猫のハコニワ、手相占い、ツナサンド、ニュージャージーの廃墟。
全部が糸でつながり、ひとつの巨大な手のひらの線を描いていた。
白いスーツの男が最後にこう言った。
「観測は終わりません。終わることは記録されないからです。
でも、“あなた”が物語を閉じることはできる。
その瞬間にだけ、あなたは観測者でも装置でもなく、ただの“誰か”になれる。
どうしますか、スロウン?」
沈黙が訪れた。
スロウンは、自分の手のひらを見つめた。
犬の形はもうなかった。代わりに、一本の直線だけがあった。
始まりも終わりもない線。
そして彼は、ゆっくりと目を閉じた。
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