静かな水面

ドルドレオン

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湖のほとりに、一人の男が暮らしていた。名前は春木(はるき)。五十を過ぎた頃から人付き合いをやめ、町を離れて、静かな山間の小屋で独り暮らしをしていた。

誰も彼の過去を深く知らない。町では「失敗した画家」だとか「元医者」だとか、憶測ばかりがささやかれていたが、誰も真相に辿り着けなかった。なぜなら、春木は話さない男だったからだ。語らず、笑わず、ただ毎朝、湖のほとりでじっと水面を見つめるのが日課だった。

湖は、鏡のようだった。
風のない朝には空の色をまるごと映し、春木の顔も、水の中にもう一人の春木を作った。

ある日、町から一人の青年がやって来た。大学の研究で「孤独と再生」というテーマを追っていると言う。春木の存在を噂で知り、どうしても話を聞きたかったらしい。

「話すことなど、何もないよ」と春木は言ったが、青年はしつこく通った。差し入れを持って来たり、小屋の掃除を手伝ったり、ただ湖のほとりに座って一緒に水面を眺めたりした。

三週間目のある朝。春木がふと呟いた。

「人はな、自分が壊れたことに気づかずに生きてることがある。…気づいたときには、もう何も残ってない」

青年は返す言葉を持たなかった。ただ、耳を澄ませた。

春木は湖のほうを見たまま、ぽつりぽつりと話し始めた。

「私は、医者だった。子供もいた。妻もいた。…息子が病気になってな、どうしても助けたかった。世界中の論文を読んだ。治療法を探した。自分で薬も作った」

「でも、間に合わなかった。医者として、父親として、何もできなかった。妻は私を責めた。私も、自分を責めた。結局、すべてから逃げた。人の命を救う仕事をしていたのに、一番大事な命を救えなかった」

湖に風が吹いた。水面が揺れ、映っていた春木の顔が消えた。

「それからここに来た。誰とも話さず、ただ、息子のことを毎日思い出す。あの子が好きだったこの湖で、毎朝、同じ場所に立って、謝ってるんだ。――心の中で、ずっと」

沈黙が流れた。

青年は言った。「…それでも、生きているんですね」

春木は目を細めた。

「そうだな。生きてる。生きることは、罰でもあり、救いでもある。…水面みたいなもんだ。静かに見えて、奥にはいろんなものが沈んでる」

青年はその日、何も書かずに町へ戻った。だが、彼のまなざしは以前より少しだけ深くなっていた。

そして春木は、翌朝もまた、湖の前に立っていた。
沈んだものは、もう浮かばない。それでも、見つめ続けるのが彼の生だった。
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