静かな水面

ドルドレオン

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― 風の届く場所 ―

それから数ヶ月が経った。青年――名は**蒼真(そうま)**と言った――は定期的に春木の小屋を訪れるようになった。

大学の研究は終わっていた。だが、蒼真はそれを言わなかった。理由はうまく説明できなかったが、「終わったから」では済まされない何かが、あの湖のほとりにはあった。

春木もまた、最初の頃のように拒むことはしなくなった。むしろ、蒼真と一緒に過ごす時間が少しずつ、湖のように静かに、彼の中の何かを洗い流していた。

ある日の午後。二人は焚き火を囲み、湯を沸かしていた。空には秋の雲が低く流れ、風は乾いていた。

蒼真がふと口を開いた。

「…実は、僕にも“助けられなかった人”がいます」

春木がゆっくり顔を向ける。

「姉でした。三年前、自殺しました。何か兆候があったはずなのに、僕は気づけなかった。見て見ぬふりをしていたのかもしれない」

「僕は、あのときからずっと“どうして”を問い続けてます。…けど、あなたの話を聞いてから、“どうして救えなかったか”より、“なぜそれでも生きるのか”の方が気になってきたんです」

春木は焚き火の奥、まだ炎が届かない黒い炭をじっと見ていた。

「――自分を責めることは、時に逃げ道になる。誰かを失った悲しみより、“自分のせいだ”という答えのほうが分かりやすいからな。だが、それでは相手の痛みに辿り着けない」

蒼真は肩を落としたように息をついた。

「じゃあ、どうすれば…?」

「想うことをやめないことだ。たとえ、もう届かなくても」

そして春木は、ふいに立ち上がった。湖へと歩き出す。

風が少し強くなっていた。水面がざわついていた。

春木は、水の中に足を入れた。

蒼真は驚いたが、声はかけなかった。

春木は静かに腰を下ろし、湖に手を浸した。そして、ふとこう言った。

「――毎朝ここに立って、謝ってきた。だが今朝は、はじめて“ありがとう”と心で言っていた」

「何に?」と蒼真が聞くと、春木はほほえんだ。

「生きていてくれたことに。たとえ短くても、あの子が生きていたという事実に、ようやく感謝できたんだ」

沈黙が広がった。だがそれは重苦しいものではなく、何かがほどけていくような、優しい沈黙だった。

そしてその日、春木は初めて、息子の名前を口にした。

「蓮(れん)という名だった」

蒼真は、うなずいた。

「…きっと、綺麗な名前に相応しい人だったんでしょうね」

春木は何も言わず、水面を見つめていた。
だがその表情は、これまででいちばん静かで、やわらかかった。
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