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昭和三十六年、三月。
東京の空は、まだ冬の名残を抱いていた。
品川駅のホームを、灰色のコートを着た男が歩いている。
彼の名は高瀬信一(たかせ・しんいち)、二十七歳。印刷会社の営業として働く、ごく平凡な青年だ。
だがその胸の奥には、誰にも言えぬ傷がひとつ、今も小さく疼いていた。
信一は毎朝、同じ時間の電車に乗る。
車両の端、窓際の席。
そこに、ひとりの女がいつも座っている。
茶色のコートに、白いマフラー。年の頃は二十二、三だろうか。
彼女は読書をしている。ページをめくる細い指、伏せた睫毛、わずかに揺れる髪。
信一は、名前も知らないその女に、半年ほど前から惹かれていた。
声をかけることなど、もちろんできない。
戦後を生きる男たちは、みな慎み深く、そして不器用だ。
ただ彼は、同じ車両に乗ることを一日の小さな慰めとしていた。
その日、信一はいつもより早く駅に着いた。
春の風が冷たく、朝靄がホームを包んでいる。
電車が到着し、いつもの席を見やる。
そこに彼女はいなかった。
落胆を覚えつつも、信一は吊革に手をかけた。
車両が動き出したそのとき、息を切らして駆け込んでくる影があった。
白いマフラー。茶色のコート。
彼女だった。
信一の心臓が、不意に跳ねた。
彼女は周囲を見回し、空いた席がないのを確かめると、信一の前に立った。
わずかに香る香水。
鞄から本を取り出し、再び物語の世界へ沈み込む。
一駅、二駅。
信一は、その本の表紙を見た。
『銀河鉄道の夜』——宮沢賢治。
「……好きなんですか、それ」
気づけば、声が漏れていた。
彼女が驚いたように顔を上げる。
「え?」
「あ、すみません……つい」
信一は赤面し、視線をそらした。
けれど、彼女は少し微笑んで言った。
「……ええ、好きです。悲しいけれど、きれいな話ですね」
その声は、鈴のように澄んでいた。
車両の窓を打つ春の雨が、細く音を立てている。
信一は、その一瞬で、彼女の名前を知らぬままに、もう戻れない場所へと足を踏み入れていた。
東京の空は、まだ冬の名残を抱いていた。
品川駅のホームを、灰色のコートを着た男が歩いている。
彼の名は高瀬信一(たかせ・しんいち)、二十七歳。印刷会社の営業として働く、ごく平凡な青年だ。
だがその胸の奥には、誰にも言えぬ傷がひとつ、今も小さく疼いていた。
信一は毎朝、同じ時間の電車に乗る。
車両の端、窓際の席。
そこに、ひとりの女がいつも座っている。
茶色のコートに、白いマフラー。年の頃は二十二、三だろうか。
彼女は読書をしている。ページをめくる細い指、伏せた睫毛、わずかに揺れる髪。
信一は、名前も知らないその女に、半年ほど前から惹かれていた。
声をかけることなど、もちろんできない。
戦後を生きる男たちは、みな慎み深く、そして不器用だ。
ただ彼は、同じ車両に乗ることを一日の小さな慰めとしていた。
その日、信一はいつもより早く駅に着いた。
春の風が冷たく、朝靄がホームを包んでいる。
電車が到着し、いつもの席を見やる。
そこに彼女はいなかった。
落胆を覚えつつも、信一は吊革に手をかけた。
車両が動き出したそのとき、息を切らして駆け込んでくる影があった。
白いマフラー。茶色のコート。
彼女だった。
信一の心臓が、不意に跳ねた。
彼女は周囲を見回し、空いた席がないのを確かめると、信一の前に立った。
わずかに香る香水。
鞄から本を取り出し、再び物語の世界へ沈み込む。
一駅、二駅。
信一は、その本の表紙を見た。
『銀河鉄道の夜』——宮沢賢治。
「……好きなんですか、それ」
気づけば、声が漏れていた。
彼女が驚いたように顔を上げる。
「え?」
「あ、すみません……つい」
信一は赤面し、視線をそらした。
けれど、彼女は少し微笑んで言った。
「……ええ、好きです。悲しいけれど、きれいな話ですね」
その声は、鈴のように澄んでいた。
車両の窓を打つ春の雨が、細く音を立てている。
信一は、その一瞬で、彼女の名前を知らぬままに、もう戻れない場所へと足を踏み入れていた。
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