昭和。愛情についての覚書

ドルドレオン

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三月の終わり、桜のつぼみはまだ固い。
会社帰りの高瀬信一は、神田の裏通りを歩いていた。
印刷所の匂いが染みついた手をポケットに突っ込み、煤けた街灯の下を通り過ぎる。
街は復興の勢いに沸いていたが、その裏側にはまだ瓦礫の影が潜んでいた。
舗道の端では、子どもが新聞紙で凧を作って遊び、屋台のラジオからは坂本九の「上を向いて歩こう」が流れている。
それはどこか、涙をこらえる歌に聞こえた。

あの朝の「銀河鉄道の夜」以来、彼女とは二度ほど電車で顔を合わせた。
ただ、互いに言葉を交わすことはなかった。
そのまま月日が過ぎれば、それで終わっていたかもしれない。
だが、運命というのは、いつだって狭い路地でこちらを待っているものだ。

その夜、信一は得意先との会食を終え、五反田の駅前を歩いていた。
春雨が降り出して、ネオンが滲む。
傘を持たないまま立ち尽くしていると、斜め向こうの喫茶店のガラス越しに、白いマフラーが見えた。

彼女だった。
薄いブルーのブラウスに、茶色のコート。
コーヒーを前に、文庫本を読んでいる。
一瞬、時が止まったようだった。

信一は、無意識のうちに店のドアを開けていた。
小さなベルが鳴り、彼女が顔を上げる。
驚きと、わずかな笑み。

「……このあいだの、電車の」
「ええ。奇遇ですね」

店内には古びたレコードの音が流れている。ジャズの名残を残すサックスが、煙草の煙の向こうで揺れていた。

「ここ、よく来るんですか?」
「会社が近いんです。あなたは?」
「いや……偶然です」

二人はぎこちなく笑い、店員が持ってきたコーヒーの湯気が、間の沈黙を埋めた。
信一は、彼女の名前をようやく聞いた。

「**朝倉美緒(あさくら・みお)**といいます」

その名を胸の奥で反芻したとき、何かが静かに始まったのを、信一は感じていた。

彼女は出版社の編集部で働いているという。
小説家志望の若者たちの原稿を読む日々だが、仕事は多く、賃金は低い。
それでも彼女は「好きなことをしているから」と笑っていた。

雨が強くなり、店の外はぼんやりと霞んでいる。
二人は並んで窓を見つめた。
美緒がぽつりと呟く。

「戦争が終わって、十六年。
 街は綺麗になっていくけれど、人の心はどうなんでしょうね」

信一は返す言葉を探したが、見つからなかった。
彼も戦争孤児のひとりだ。
家族を疎開先で亡くし、焼け跡の町で一人、新聞配達をして生き延びた。
再建という言葉が、人々の傷を隠すための仮面のように思えることがあった。

「……変わらないのかもしれません」
そう言うと、美緒はゆっくり頷いた。

店を出る頃には、雨は止んでいた。
駅までの道、彼女は傘を持っていなかった。
信一は、自分のコートを差し出した。

「寒いですから」
「ありがとうございます。でも……」
「いいんです」

彼女は一瞬ためらい、そして素直にそれを受け取った。
肩にかけたコートの裾が、春風に揺れる。

ホームに着くと、ちょうど電車が入ってきた。
列車の音の向こうで、彼女が言った。

「今度、お休みの日に……喫茶店で続きをお話ししませんか?」

信一は答える代わりに、小さく頷いた。

夜の街を走り去る電車の灯が、雨上がりの路面に線を引く。
それはまるで、誰かの運命をなぞるようだった。
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