昭和。愛情についての覚書

ドルドレオン

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四月の初め、桜が咲いた。
だが、東京の空の色はどこか鈍かった。
霞むような陽射しの下、街は埃っぽく、電線の上を鳩がのそりと歩いている。
通りには「国民金融公庫」の看板と、木造の長屋。
角の銭湯からは湯気が立ち、下駄の音が石畳に乾いたリズムを刻んでいた。

高瀬信一は、日曜の午後、神保町の「喫茶みなと」にいた。
約束の時間を少し過ぎても、朝倉美緒は現れない。
店内は、学生とサラリーマン、それに原稿用紙を抱えた若者たちで賑わっている。
磨りガラス越しに差す午後の光が、紫煙の向こうで揺れていた。

信一は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。
ライターの小さな音が、過ぎ去った青春の残響のように響く。

扉のベルが鳴った。
振り向くと、美緒が息を弾ませて立っていた。
「ごめんなさい。編集部の校了が長引いて……」
信一は微笑んだ。
「いいんです。忙しいんですね」
「……ええ、昭和は忙しい時代ですから」
冗談めかしたその言葉の中に、ほんの少しの疲れが滲んでいた。

二人は並んで座り、コーヒーを頼んだ。
壁際のスピーカーからは淡谷のり子の低い歌声が流れている。
店の奥では古いファンが回り、天井に光の模様を投げかけていた。

「ねえ、高瀬さん」
「はい?」
「あなたは、どうして印刷の仕事を選んだんですか?」

信一は少し考えた。
「戦後、何もなかったんです。
 でも紙と文字だけは、どんな時代にも残ると思った。
 文字が消えなければ、人も忘れないような気がして」

美緒はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
そして、指先でカップの縁をなぞりながら言った。
「……いい言葉ですね」

外を路面電車が走り抜けた。
その音が、ふたりの沈黙にゆっくりと重なる。

やがて、美緒は鞄の中から原稿用紙の束を取り出した。
「実は、これ……新人作家の原稿なんです。どう思います?」
信一はページをめくった。
行間に、若い熱と未熟な痛みが散らばっている。
だがその中に、どこか見覚えのある筆跡があった。

「……この字、もしかして」
「ええ、大学時代の友人です。彼、あなたの会社で印刷をお願いしてるそうですよ」

信一の脳裏に、ある名前が浮かんだ。
岸本康介。
かつて印刷の営業で関わった若者で、文学にすべてを賭けている風変わりな男だった。
そして――信一が密かに想いを寄せていた、亡き婚約者の弟でもあった。

「岸本……康介、ですね」
「ええ、ご存じなんですか?」
信一は煙草を消しながら小さく頷いた。

窓の外では、陽が傾き始めている。
街のあちこちに新しい建物が立ち始め、古いものが壊されていく。
「再開発」という言葉が、新聞の見出しに躍る。
時代は前へ進もうとしていた。
だが、その歩みが速すぎて、人の心が追いつけない。

「……高瀬さん」
美緒が言った。
「わたし、この街が好きなんです。
 不格好で、古くて、でもまだ人の匂いがする。
 だから、いつかこの時代をちゃんと書き留めたい」

その眼差しの奥に、まっすぐな光が宿っていた。
信一はその横顔を見つめながら、言葉にできぬ不安を覚えた。
彼女はこの街を超えてゆく人だ。
自分は、その背中を見送る側の人間かもしれない。

夕暮れ、二人は神保町の通りに出た。
古書店の軒下で、風が古い紙の匂いを運ぶ。
街頭スピーカーからはニュースが流れていた。
――「高度経済成長」「海外進出」「池田内閣の所得倍増計画」。

人々の顔に浮かぶ笑みの影で、どこか取り残されたような寂しさが漂っていた。

美緒がふと立ち止まり、言った。
「この先に、古い映画館があるんです。今夜、行きませんか?」
「映画ですか?」
「はい、『東京の空の下』っていうんです。誰も見ないような古いフィルムだけど……好きなんです」

信一は頷いた。
二人は並んで歩き出した。
街の灯がひとつ、またひとつ、ガラスの中で揺れる。

その夜、スクリーンの光に照らされた美緒の横顔を見ながら、
信一は思った。

――この光は、いつまで続くだろう。

そして胸の奥で、小さな不吉な影が静かに動き始めていた。
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