昭和。愛情についての覚書

ドルドレオン

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昭和三十六年、四月の終わり。
小雨が降り続いていた。
東京駅のプラットホームは、濡れた石の匂いと鉄の匂いが混じっている。
灰色の空を背に、蒸気機関車が白い煙を吐き出していた。

高瀬信一は、出張の帰りの列車を待っていた。
ベンチの隅で、ハンチング帽の男が新聞を読み、赤ん坊を抱いた母親が雨を避けて立っている。
売店では、女店員が湯気の立つ肉まんを並べていた。
改札口の上には「東海道本線・下り 大阪行き」と書かれた黒い札が下がっている。

駅の音というのは、不思議なものだ。
列車の汽笛、靴音、アナウンス、遠くのざわめき。
それらが混じり合って、ひとつの時代の鼓動のように響いていた。

その音を聞いているうちに、信一はふと、玲子の顔を思い出していた。

玲子と出会ったのは、戦後すぐのことだった。
まだ上野の街が焦げた匂いを放っていた頃。
彼女は闇市で看護の仕事をしており、包帯の匂いと石鹸の匂いをいつもまとっていた。

「あなた、よくこんなところを歩けますね」
あの時、笑いながらそう言った彼女の声は、どこか透明で、強かった。

玲子は、戦時中に家族を疎開先で亡くしていた。
それでも彼女は前を向いていた。
「生きるって、ちゃんと呼吸を続けることよ」と言って、
瓦礫の町を真っ直ぐ歩いていた。

信一はその背中に、光を見た。
やがて二人は婚約した。
まだ二十四歳と二十歳。
世の中は何もかも足りなかったが、未来だけはあった。

だが、昭和二十四年の春、
玲子は突然、肺結核で倒れた。
当時はまだ特効薬もなく、病院の窓の外で咲く桜を眺めながら、
彼女は静かに言った。

「あなたは、きっと誰かを愛する人よ」

信一は何も言えなかった。
彼女が息を引き取った夜、東京の空に雪が舞った。
桜と雪が同じ日に降ることを、あの日、初めて知った。

列車の汽笛が、信一を現実へ引き戻した。
ホームの端には、旅立つ若者たちが集まっている。
新しいスーツ、磨かれた革靴。
彼らの笑顔には、戦争を知らない世代の眩しさがあった。

信一はその姿を見つめながら、どこか胸の奥に痛みを覚えた。
時代が変わる。
だが、心のどこかでは、いつまでも玲子の声が残っている。

雨脚が強くなり、ホームの屋根から滴が落ちる。
水の粒が、まるで時の残骸のように線路に散った。

そのときだった。
改札を抜けてくるひとりの青年が、傘を差しながらこちらへ歩いてきた。
黒いコートに、原稿用紙の束を抱えている。
彼の顔に見覚えがあった。

「――岸本、康介」

青年が立ち止まり、驚いたように言った。
「高瀬さん……覚えていてくださったんですか」
「もちろんだ。玲子さんの……弟だ」

康介は微かに笑い、目を伏せた。
「姉さんの話を、今でも覚えているんですね」
信一は答えられなかった。

「姉さん、よく言ってました。
 “信一さんは、戦争が終わっても、ずっと何かを背負って生きてる”って」

その言葉が、雨よりも冷たく胸に刺さった。

「俺は……姉さんを守れなかった」
「誰も守れなかった時代ですよ」

康介は静かにそう言い、ポケットから封筒を取り出した。
「これ、姉さんが亡くなる前に書いた手紙です。
 渡す相手がいなかったけど……あなたに」

信一は震える手で封を切った。
中には、玲子の筆跡で短い一文が書かれていた。

――“信一さん、あなたの未来が、もう一度光を取り戻しますように。”

信一は雨に滲む文字を見つめた。
汽車の汽笛が鳴り、白い蒸気が立ちのぼる。
まるで玲子の声が、どこか遠くの空で呼んでいるようだった。

「ありがとう、康介くん」
「姉さん、きっと見てますよ」

青年が去り、雨の中にその姿が溶けていった。

信一はホームに立ち尽くしたまま、
遠ざかる列車の光を見送った。

やがて、桜の花びらが一枚、線路に落ちた。
それは、白い煙の中で静かに溶けた。
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