昭和。愛情についての覚書

ドルドレオン

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夜の銀座は、雨に濡れて光っていた。
舗道の上で傘がすれ違い、街灯が人々の顔を淡く照らす。
看板のネオンが滲み、赤と青の光が雨粒のひとつひとつに溶けていく。
通りにはバーの呼び込み、キャバレーの音楽、タクシーのクラクション。
昭和三十六年の東京は、貧しさと欲望と未来が入り混じった、
まるで硝子のように脆く輝く街だった。

信一は、銀座八丁目の裏路地にある小さなバー「水影」のカウンターにいた。
カウンター越しに琥珀色のウイスキーが揺れている。
その向こうには、同じくグラスを手にした岸本康介の姿。

「姉さんの手紙、読みました」
信一の言葉に、康介は小さく頷いた。
「……あの人、強いようで弱かった。
 でも、あの人がいなければ、僕は何も書けませんでした」

信一は煙草に火をつけ、煙をゆっくり吐いた。
店内のランプの明かりが、康介の横顔を浮かび上がらせる。
どこか玲子に似ている――目元の線が、あの頃の面影を呼び起こす。

「文学なんて、世の中の何になると思う?」
信一が問うと、康介は静かに答えた。
「何にもならない。でも、それでも書くんです。
 時代がどんなに変わっても、人の痛みはなくならないから」

その言葉を聞いた瞬間、信一の胸の奥で、
何かが小さく鳴った。

外では、雨脚が強まっていた。
ガラス窓に流れる雫が、街の灯をゆがめる。
遠くのスピーカーからは、美空ひばりの「哀愁波止場」が流れていた。

「――朝倉美緒さんのこと、知ってるんです」
康介がぽつりと呟いた。
信一はグラスを止めた。

「彼女、うちの編集部に原稿を持ってきました。
 僕の新作を担当することになったんです」

信一は返す言葉を失った。
康介は、グラスの底を見つめながら続けた。
「彼女、すごいですよ。
 時代の先を見ている。女性が社会で生きることが、どんなに難しいか知っていて、
 それでも前を向いている。……姉さんに、少し似てます」

その言葉が胸に刺さった。
美緒が時代を駆け抜けようとしている姿を、
信一は知っていた。
彼女は編集の仕事を広げようと奔走し、夜遅くまで原稿を抱えていた。
彼女が会う人たちは若く、理想に満ちていて、
信一にはもう届かない光の中を歩いていた。

その夜、バーを出ると、雨上がりの空にネオンが滲んでいた。
二人は並んで歩いた。
舗道には水たまりが光を映し、遠くから都電の音が聞こえる。

「高瀬さん」
「ん?」
「姉さん、あなたを恨んでなんかいませんよ」
信一は足を止めた。
康介は傘を閉じ、雨の滴を受けながら言葉を続けた。
「むしろ、感謝してました。
 “信一さんの中で、自分が生き続けてくれたら、それでいい”って」

街の灯が、康介の瞳に映っていた。
信一は、何も言えずに頷いた。

――その翌日。

神保町の編集部の前で、美緒が立っていた。
薄いトレンチコートの襟を立て、手には資料の束。
夜風が吹くと、髪が頬にかかる。

「高瀬さん、来てくださったんですね」
「ええ。近くまで来たので」

彼女は少し笑い、そして疲れたように目を伏せた。
「最近、忙しすぎて……でも、楽しいんです。
 印刷所にもよく行ってますよ。時代が動いてるって、感じます」

信一はその横顔を見つめた。
若さと夢と焦燥――昭和という時代が、彼女の肩の上で光っていた。

「無理をしないでください」
「無理をしなきゃ、女はここで立てないんです」

その一言に、彼女のすべてがあった。

通りの向こうで、ネオンが瞬いた。
“サッポロビール”の赤い文字が、夜の雨に揺れている。
遠くで汽笛が鳴り、どこかで列車が東京を離れていく。

信一は、彼女の背中を見送りながら、
ふと気づいた。
――この街が新しくなっていくほどに、自分たちは古くなっていく。
昭和の街は、まるで硝子細工のように輝きながら、
いつか粉々に砕ける運命を抱いているのかもしれない。

夜風が冷たく、桜の花びらがアスファルトに貼りついていた。
信一は立ち止まり、煙草に火をつけた。
火の先が揺れ、ふっと灯りが消えた。

そして彼の心のどこかで、
玲子の声と、美緒の笑顔と、康介の言葉が、
ひとつの静かな音となって響いていた。
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