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五月の風は、まだ少し冷たかった。
昼間は初夏のように明るくても、夜の川沿いには冬の名残の匂いが残っている。
信一は、隅田川にかかる古い橋の上を歩いていた。
鉄の欄干が錆び、塗装が剥げかけている。
足もとを、都電の光が流れ、川面にはネオンの色が細く揺れていた。
遠くで工事の音がする。
高架をつくり、新しい街を築こうという時代の声。
だが、その音は信一には、どこか葬送のリズムに聞こえた。
まるで昭和という時代そのものを埋め立てていく音のようだった。
ポケットの中に、玲子の手紙がある。
雨に濡れて少し滲んだ文字。
“あなたの未来が、もう一度光を取り戻しますように。”
信一は何度もその文を読んだ。
けれど、その「未来」という言葉がどこにあるのか、彼にはもうわからなかった。
会社では若い社員が増え、紙よりも機械の話ばかりが飛び交う。
活版印刷の時代は終わろうとしている。
活字をひとつひとつ並べる職人たちの手が、次々と不要になっていく。
工場の隅には、使われなくなった活字の箱が積まれていた。
その一つ一つに、誰かの言葉、誰かの思いが詰まっている気がした。
信一は夜の橋の真ん中で立ち止まった。
川面には街の光が流れ、風が吹くたびにその光が砕けて散る。
まるで、失われた時間のかけらだった。
――背後で足音がした。
振り向くと、美緒がいた。
薄い灰色のコート。髪が風に乱れ、頬に光がかかっている。
「探しました」
「どうしてここが?」
「康介さんに聞きました。あなたがよく、この橋を渡るって」
美緒はゆっくりと信一の隣に立った。
しばらく二人は黙って川を見つめた。
「……時々、怖くなるんです」
「何がですか」
「この街が、どんどん変わっていくことです。
ビルが建って、ネオンが増えて、人が笑っているのに、
心の中はどこか寒いまま」
信一は小さく頷いた。
「僕もそうだ。
昔の方が良かったとは言いたくないけれど……
何か、大事なものを置き忘れてきた気がする」
風が二人の間を抜けた。
川沿いの柳の枝が、夜風に揺れている。
遠くで汽笛が鳴った。
「高瀬さん」
「はい」
「もし……玲子さんが生きていたら、あなた、どうしてたと思います?」
信一は答えられなかった。
目を閉じると、あの桜の夜が浮かんだ。
玲子が病室の窓から見た、散りゆく花。
そして彼女が最後に言った言葉。
“あなたは、きっと誰かを愛する人よ。”
「……たぶん、何も変わらなかったと思う」
「変わらない?」
「誰かを失う悲しみは、時代が変わっても、同じなんだ。
僕はその悲しみの上で生きている。
きっと、これからも」
美緒はうつむき、小さく微笑んだ。
「あなたのそういうところ……好きです」
信一は驚いて彼女を見た。
その表情には、涙とも笑みともつかぬ光があった。
「でも、わたしは前に進みます。
この街で、女が言葉で生きられることを証明したい。
そのためには、誰かの記憶に甘えてはいけない気がするんです」
それは、美緒の決意の言葉だった。
信一は、何も言わずに頷いた。
川の上を風が渡る。
硝子の街の光が、水の中で粉々に揺れていた。
やがて、美緒が静かに言った。
「――康介さん、地方に行くそうです。新しい作品を書くって」
「そうか」
「彼、言ってました。“姉さんの時代は終わった。次の声を探す”って」
信一は川面に目を落とした。
玲子、美緒、康介――それぞれが違う未来へ歩き出している。
自分だけが、まだ昭和の影の中に立っている気がした。
「高瀬さん、あなたも……もう一度、書いてみませんか?」
「書く?」
「あなたの言葉で。あなたの時代を」
その言葉に、信一の胸の奥で何かが微かに灯った。
それは玲子の手紙に書かれていた“未来の光”だったのかもしれない。
夜風が強く吹き、二人の間に小さな沈黙が生まれた。
信一はポケットから煙草を取り出したが、ライターの火は風に消えた。
その光の残滓が、美緒の瞳に映っていた。
「……ありがとう」
「え?」
「君に会えて、よかった」
その言葉に、美緒は何も言わなかった。
ただ、そっと頷き、夜の風の中に消えていった。
信一は一人、橋の上に残った。
川の水面に映る街の光が、ゆっくりと流れていく。
それはまるで、過去そのものが流れ去っていくようだった。
彼はもう一度、玲子の手紙を見た。
滲んだ文字が、夜の灯に淡く光った。
――“あなたの未来が、もう一度光を取り戻しますように。”
信一はその一文を胸に抱き、
静かに、川の向こうの闇へと歩き出した。
その足音が、昭和という時代の遠い残響のように、
いつまでも橋の上に響いていた。
昼間は初夏のように明るくても、夜の川沿いには冬の名残の匂いが残っている。
信一は、隅田川にかかる古い橋の上を歩いていた。
鉄の欄干が錆び、塗装が剥げかけている。
足もとを、都電の光が流れ、川面にはネオンの色が細く揺れていた。
遠くで工事の音がする。
高架をつくり、新しい街を築こうという時代の声。
だが、その音は信一には、どこか葬送のリズムに聞こえた。
まるで昭和という時代そのものを埋め立てていく音のようだった。
ポケットの中に、玲子の手紙がある。
雨に濡れて少し滲んだ文字。
“あなたの未来が、もう一度光を取り戻しますように。”
信一は何度もその文を読んだ。
けれど、その「未来」という言葉がどこにあるのか、彼にはもうわからなかった。
会社では若い社員が増え、紙よりも機械の話ばかりが飛び交う。
活版印刷の時代は終わろうとしている。
活字をひとつひとつ並べる職人たちの手が、次々と不要になっていく。
工場の隅には、使われなくなった活字の箱が積まれていた。
その一つ一つに、誰かの言葉、誰かの思いが詰まっている気がした。
信一は夜の橋の真ん中で立ち止まった。
川面には街の光が流れ、風が吹くたびにその光が砕けて散る。
まるで、失われた時間のかけらだった。
――背後で足音がした。
振り向くと、美緒がいた。
薄い灰色のコート。髪が風に乱れ、頬に光がかかっている。
「探しました」
「どうしてここが?」
「康介さんに聞きました。あなたがよく、この橋を渡るって」
美緒はゆっくりと信一の隣に立った。
しばらく二人は黙って川を見つめた。
「……時々、怖くなるんです」
「何がですか」
「この街が、どんどん変わっていくことです。
ビルが建って、ネオンが増えて、人が笑っているのに、
心の中はどこか寒いまま」
信一は小さく頷いた。
「僕もそうだ。
昔の方が良かったとは言いたくないけれど……
何か、大事なものを置き忘れてきた気がする」
風が二人の間を抜けた。
川沿いの柳の枝が、夜風に揺れている。
遠くで汽笛が鳴った。
「高瀬さん」
「はい」
「もし……玲子さんが生きていたら、あなた、どうしてたと思います?」
信一は答えられなかった。
目を閉じると、あの桜の夜が浮かんだ。
玲子が病室の窓から見た、散りゆく花。
そして彼女が最後に言った言葉。
“あなたは、きっと誰かを愛する人よ。”
「……たぶん、何も変わらなかったと思う」
「変わらない?」
「誰かを失う悲しみは、時代が変わっても、同じなんだ。
僕はその悲しみの上で生きている。
きっと、これからも」
美緒はうつむき、小さく微笑んだ。
「あなたのそういうところ……好きです」
信一は驚いて彼女を見た。
その表情には、涙とも笑みともつかぬ光があった。
「でも、わたしは前に進みます。
この街で、女が言葉で生きられることを証明したい。
そのためには、誰かの記憶に甘えてはいけない気がするんです」
それは、美緒の決意の言葉だった。
信一は、何も言わずに頷いた。
川の上を風が渡る。
硝子の街の光が、水の中で粉々に揺れていた。
やがて、美緒が静かに言った。
「――康介さん、地方に行くそうです。新しい作品を書くって」
「そうか」
「彼、言ってました。“姉さんの時代は終わった。次の声を探す”って」
信一は川面に目を落とした。
玲子、美緒、康介――それぞれが違う未来へ歩き出している。
自分だけが、まだ昭和の影の中に立っている気がした。
「高瀬さん、あなたも……もう一度、書いてみませんか?」
「書く?」
「あなたの言葉で。あなたの時代を」
その言葉に、信一の胸の奥で何かが微かに灯った。
それは玲子の手紙に書かれていた“未来の光”だったのかもしれない。
夜風が強く吹き、二人の間に小さな沈黙が生まれた。
信一はポケットから煙草を取り出したが、ライターの火は風に消えた。
その光の残滓が、美緒の瞳に映っていた。
「……ありがとう」
「え?」
「君に会えて、よかった」
その言葉に、美緒は何も言わなかった。
ただ、そっと頷き、夜の風の中に消えていった。
信一は一人、橋の上に残った。
川の水面に映る街の光が、ゆっくりと流れていく。
それはまるで、過去そのものが流れ去っていくようだった。
彼はもう一度、玲子の手紙を見た。
滲んだ文字が、夜の灯に淡く光った。
――“あなたの未来が、もう一度光を取り戻しますように。”
信一はその一文を胸に抱き、
静かに、川の向こうの闇へと歩き出した。
その足音が、昭和という時代の遠い残響のように、
いつまでも橋の上に響いていた。
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