昭和。愛情についての覚書

ドルドレオン

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昭和四十年、春。
東京の空は、いつになく明るかった。
高速道路が伸び、ビルの影が長く伸びる。
街には工事の音が絶えず、どこもかしこも未来の匂いがしていた。
かつて焼け跡だった土地に、喫茶店が立ち、書店が立ち、
電車の窓からは色とりどりの広告が流れていく。

高瀬信一は、浅草から少し離れた古い長屋の一室に住んでいた。
六畳一間、木の机、古びたタイプライター。
そこが、彼の新しい仕事場だった。

印刷会社を辞めたのは、一年前の春。
長年の同僚たちが驚いたが、信一の心は不思議と穏やかだった。
あの夜の橋の上で、美緒が言った言葉――
「あなたの言葉で、あなたの時代を」。
それが、彼を静かに動かした。

朝は市場のざわめきで目を覚まし、昼は川沿いの喫茶店で原稿を直し、
夜はタイプライターのキーを叩く。
カタカタと鳴る音が、まるで活版印刷の活字の記憶を呼び戻すようだった。
今度は、自分の手で「文字を刻む」番なのだ。

机の上には、原稿用紙が積み重なっている。
タイトルはまだない。
ただ、そこには昭和という時代を生きた人々――
働く者、失った者、夢を見た者――の姿が綴られていた。
それは、彼自身の記録でもあり、
玲子と美緒と康介、そしてこの街すべてへの鎮魂でもあった。

昼下がり、近所の子どもたちの笑い声が聞こえる。
小さな路地には、花屋が新しくでき、
プラスチックの看板が風に揺れている。
時代は、確かに変わっていた。

信一はペンを置き、窓を開けた。
春の風が、紙の上をさらりと撫でる。
どこかからラジオの音が聞こえてきた。
「――本日、東京オリンピック記念公園の完成式が行われました」

街の声が、軽やかに響く。
もう、あの陰鬱な戦後の空気はどこにもなかった。

だが、信一の胸の奥では、
過去が静かに息をしていた。
それは重荷ではなく、彼を生かすための土のようなものだった。

ふと、机の上の封筒に目をやる。
差出人は――朝倉美緒。

彼女は今、編集長として地方紙に携わり、
自分の企画で若い作家を世に送り出している。
封筒の中には短い手紙があった。

「あなたの書く“昭和”を読みたい。
人が生きるということを、ちゃんと見つめた物語を。
それを、私の雑誌で掲載したいのです。」

信一はその一文を読み、
胸の奥で静かに何かが溶けていくのを感じた。

彼はタイプライターに向かい、
新しい紙を挟んだ。
ゆっくりとキーを叩く。

カタカタ、カタカタ——。

その音は、まるで時代の鼓動だった。
かつての傷が、いまは言葉に変わり、
言葉が、やがて未来へ届こうとしている。

外では、夕陽が街を染めていた。
ビルのガラスが赤く光り、
川面には金色の筋が流れる。
その光の中で、信一は小さく笑った。

「――玲子、美緒。見ているか。」

誰に届くでもない声を、
彼は静かに空へ放った。

そして再び、タイプライターの音が部屋に響いた。
書くこと、それがいまの彼の生き方だった。

ページの上に、タイトルの文字が打ち込まれる。

『硝子の雨 第一章』

新しい物語が、静かに始まった。
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