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第3章 死線の抱擁
3-6.深淵の違和感
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黒崎の新品のモーターボートが、ライムグリーンの女によって汚された翌日の午前。
慣れ親しんだ潮騒の音が、今日に限って少し寂しく響いていた。
サラは、エヴァリエ家に代々伝わるエパングル(かんざし)で長い髪をまとめ、18歳から過ごした島の家を整理していた。
棚に並んだ貝殻、潮風で色褪せた写真、古くなった水中マスク、そして数々の思い出。
それらをスーツケースに詰め込み、残りは潔く処分した。1年間の「Abyss Cathedral」。
あの狂気的なステージを週1回こなし、携帯電話を与えられ、ケアンズのホテルや黒崎のヨットを転々とする日々は刺激的だったが、やはりこの質素な我が家は特別だった。
そんな折、黒崎から携帯電話に連絡が入った。
「事業でトラブルが起きた。対応にどれくらいかかるかわからない。悪いが、来月からこちらに来てもらって一緒に住み始めるのは難しい。少し延ばしてくれないか」
普通なら落胆するところだが、サラはどこか安堵していた。この家、この海とまだ一緒にいられる。
彼女はその提案を静かに受け入れた。
翌朝から、サラは日課だった「トンネル」への遊泳を再開した。
かつて黒崎と出会い、サラの大いなる可能性を見出してくれた、あの珊瑚のトンネル。
しかし、異変はすぐに訪れた。
潜行中、背後で微かな気泡の音がした。
「エドワード?」と思って振り返るが、そこにはただ群青色の静寂が広がっているだけ。
浮上して待ってみても、誰も現れない。
翌日も同じことが起きたが、彼女は「海が私を呼んでいるのかしら」と、楽観的に捉えていた。
3日目、海は荒れていた。
白波が立ち、うねりが激しい。
しかし、今のサラの泳力にとって、この程度の荒天は障害にならなかった。
いつもの地点まで泳ぎ、一気に潜行する。
トンネルに差し掛かった瞬間、猛烈な逆流が彼女を襲った。
(……今日は無理ね)
無理はしない。
それがサラの海での掟だ。
浮上しようとしたその時、冷たい感触が彼女の脚を掴んだ。
スキューバを装備した2人組。
彼らは力任せに、サラを海底へと引きずり込もうとする。
サラは咄嗟に身を屈め、相手と同じ深さまで潜ると、渾身の力で1人の顔面に膝蹴りを叩き込んだ。
バキッ、という感触とともにマスクが外れる。
現れたのは、苦悶に表情を歪ませたあの女性だった。
もう1人の男が襲いかかってくるが、サラは冷静だった。
彼女は男の口からレギュレーターを力ずくで引き剥がすと、それを決して渡さないよう強く握りしめた。
視界を奪われた女と、空気を奪われた男。
(……まあ、2人で助け合えば死ぬことはないでしょう)
サラは彼らを捨て置き、力強いキックで水面を目指した。
慣れ親しんだ潮騒の音が、今日に限って少し寂しく響いていた。
サラは、エヴァリエ家に代々伝わるエパングル(かんざし)で長い髪をまとめ、18歳から過ごした島の家を整理していた。
棚に並んだ貝殻、潮風で色褪せた写真、古くなった水中マスク、そして数々の思い出。
それらをスーツケースに詰め込み、残りは潔く処分した。1年間の「Abyss Cathedral」。
あの狂気的なステージを週1回こなし、携帯電話を与えられ、ケアンズのホテルや黒崎のヨットを転々とする日々は刺激的だったが、やはりこの質素な我が家は特別だった。
そんな折、黒崎から携帯電話に連絡が入った。
「事業でトラブルが起きた。対応にどれくらいかかるかわからない。悪いが、来月からこちらに来てもらって一緒に住み始めるのは難しい。少し延ばしてくれないか」
普通なら落胆するところだが、サラはどこか安堵していた。この家、この海とまだ一緒にいられる。
彼女はその提案を静かに受け入れた。
翌朝から、サラは日課だった「トンネル」への遊泳を再開した。
かつて黒崎と出会い、サラの大いなる可能性を見出してくれた、あの珊瑚のトンネル。
しかし、異変はすぐに訪れた。
潜行中、背後で微かな気泡の音がした。
「エドワード?」と思って振り返るが、そこにはただ群青色の静寂が広がっているだけ。
浮上して待ってみても、誰も現れない。
翌日も同じことが起きたが、彼女は「海が私を呼んでいるのかしら」と、楽観的に捉えていた。
3日目、海は荒れていた。
白波が立ち、うねりが激しい。
しかし、今のサラの泳力にとって、この程度の荒天は障害にならなかった。
いつもの地点まで泳ぎ、一気に潜行する。
トンネルに差し掛かった瞬間、猛烈な逆流が彼女を襲った。
(……今日は無理ね)
無理はしない。
それがサラの海での掟だ。
浮上しようとしたその時、冷たい感触が彼女の脚を掴んだ。
スキューバを装備した2人組。
彼らは力任せに、サラを海底へと引きずり込もうとする。
サラは咄嗟に身を屈め、相手と同じ深さまで潜ると、渾身の力で1人の顔面に膝蹴りを叩き込んだ。
バキッ、という感触とともにマスクが外れる。
現れたのは、苦悶に表情を歪ませたあの女性だった。
もう1人の男が襲いかかってくるが、サラは冷静だった。
彼女は男の口からレギュレーターを力ずくで引き剥がすと、それを決して渡さないよう強く握りしめた。
視界を奪われた女と、空気を奪われた男。
(……まあ、2人で助け合えば死ぬことはないでしょう)
サラは彼らを捨て置き、力強いキックで水面を目指した。
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