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第5章 緋色の龍宮(饗宴)
5-17.リーの「観測室」
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黒崎は、サラが差し出した小さなチップを震える指先で受け取った。
濃い木目のテーブルの上で、チップは鈍い金属光を帯び、それがただの機械部品ではないことを無言で訴えていた。
「これは……蒼溟のものじゃない」
黒崎は絞り出すように呟き、チップの裏面に刻まれた微細な回路に目を走らせた。
その目は疲労で霞んでいたが、驚愕と怒りが混じった鋭さを取り戻していく。
「蒼溟の林がこれを知っていたということは……奴らも“監視”していただけだ。ハッキングして、この回線に相乗りしていただけにすぎない。本来の設置主は……」
黒崎の言葉が途切れ、サラの呼吸も同時に止まった。
二人の視線が、ゆっくりと昨日リーが腰かけていた椅子へ向く。
潮風で白く乾いた壁。
古びた木の床。
そこに置かれた“ふつうの椅子”――
けれど、昨日その椅子に座っていた女は、普通ではなかった。
リーはその日、黒人の秘書を連れて家を訪れた。
彼女は笑いながら「この質素さが気に入った」と言い、
客人らしからぬ落ち着いた動作で、この家の隅々まで視線を走らせていた。
――“観察”ではなく、“検分”。
今なら、はっきりそう断言できる。
そしてサラの記憶に蘇る。
黒人秘書がサイドボード付近に立っていた光景が。
ただそこに立っていたのではない。
視線を走らせ、指先を動かし、“何かを仕掛けるための場の確認”をしていたのだ。
「龍宮」の建設主であるリーにとって、
その“人魚”――サラの私生活は、最高級の実験データそのものだった。
黒崎の顔が、怒りとも絶望ともつかない歪みを帯びる。
「あいつ……この家を、まるごと実験室に変えていたのか」
声が低く震えた。
テーブルの上のチップが、怒りに共鳴するように光を反射する。
今朝、断崖から飛び降りる直前に交わした言葉。
戻ってからの息遣い。
ソファで肩にもたれかかっていた時間。
そして今、極限の疲労の中で発した一言一言――。
すべてがリーの元へ、リアルタイムのデータとして送信されていた。
サラはその事実を受け止めきれず、胸の奥に重く沈む何かを押し殺すように息を吸った。
彼女にとって、二人の「生の営み」こそが、深海都市という閉ざされた世界を制御するための最も純粋で、最も残酷なバイタルデータだったのだ。
家の中に広がる静寂が、急に違う意味を帯びはじめた。
それはただの静けさではなく、“誰かに覗かれた後の空気”が残す、乾いた冷たさだった。
サラは拳を強く握り、唇を噛んだ。
この家は、彼女が生まれ、帰ってきて、守ってきた場所だ。
そのすべてが、誰かの実験素材として利用されていた――。
テーブルの上で震える黒崎の手と、サラの強張った肩越しに、
家そのものが軋むような気配が満ち始めていた。
濃い木目のテーブルの上で、チップは鈍い金属光を帯び、それがただの機械部品ではないことを無言で訴えていた。
「これは……蒼溟のものじゃない」
黒崎は絞り出すように呟き、チップの裏面に刻まれた微細な回路に目を走らせた。
その目は疲労で霞んでいたが、驚愕と怒りが混じった鋭さを取り戻していく。
「蒼溟の林がこれを知っていたということは……奴らも“監視”していただけだ。ハッキングして、この回線に相乗りしていただけにすぎない。本来の設置主は……」
黒崎の言葉が途切れ、サラの呼吸も同時に止まった。
二人の視線が、ゆっくりと昨日リーが腰かけていた椅子へ向く。
潮風で白く乾いた壁。
古びた木の床。
そこに置かれた“ふつうの椅子”――
けれど、昨日その椅子に座っていた女は、普通ではなかった。
リーはその日、黒人の秘書を連れて家を訪れた。
彼女は笑いながら「この質素さが気に入った」と言い、
客人らしからぬ落ち着いた動作で、この家の隅々まで視線を走らせていた。
――“観察”ではなく、“検分”。
今なら、はっきりそう断言できる。
そしてサラの記憶に蘇る。
黒人秘書がサイドボード付近に立っていた光景が。
ただそこに立っていたのではない。
視線を走らせ、指先を動かし、“何かを仕掛けるための場の確認”をしていたのだ。
「龍宮」の建設主であるリーにとって、
その“人魚”――サラの私生活は、最高級の実験データそのものだった。
黒崎の顔が、怒りとも絶望ともつかない歪みを帯びる。
「あいつ……この家を、まるごと実験室に変えていたのか」
声が低く震えた。
テーブルの上のチップが、怒りに共鳴するように光を反射する。
今朝、断崖から飛び降りる直前に交わした言葉。
戻ってからの息遣い。
ソファで肩にもたれかかっていた時間。
そして今、極限の疲労の中で発した一言一言――。
すべてがリーの元へ、リアルタイムのデータとして送信されていた。
サラはその事実を受け止めきれず、胸の奥に重く沈む何かを押し殺すように息を吸った。
彼女にとって、二人の「生の営み」こそが、深海都市という閉ざされた世界を制御するための最も純粋で、最も残酷なバイタルデータだったのだ。
家の中に広がる静寂が、急に違う意味を帯びはじめた。
それはただの静けさではなく、“誰かに覗かれた後の空気”が残す、乾いた冷たさだった。
サラは拳を強く握り、唇を噛んだ。
この家は、彼女が生まれ、帰ってきて、守ってきた場所だ。
そのすべてが、誰かの実験素材として利用されていた――。
テーブルの上で震える黒崎の手と、サラの強張った肩越しに、
家そのものが軋むような気配が満ち始めていた。
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