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第6章 緋色の龍宮(龍墜)
6-9.宿敵の影、浮上す
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時はわずかに遡る。
サラが海底の深淵で未知なる鉄の牙――水中ドローンの強襲を受けていた、まさにその同時刻。
「龍宮」の建設予定地を臨む海岸沿い、静謐な空気を切り裂くように建つコンドミニアムの1室。
遮光カーテンによって外界の光を完全に遮断したその部屋は、墓標のような暗がりに包まれていた。
その中心で、1人の男が魂を抜かれたように立ち尽くしている。蒼溟重工の主任エンジニア、林子軒(リン・ズーシュエン)。
42歳。
彼の眼前にそびえ立つ8枚の大型ディスプレイは、つい先ほどまで超高精細な深海のパノラマを映し出していた。
だが、今はすべてが冷徹な無機質の黒へと塗り潰され、静まり返っている。
(……一体、何が起きた? 通信プロトコルは正常、ハードウェアの損壊も確認されていない。メンテナンスは完璧だったはずだ)
林は一見、どこにでもいる冴えない中年男に過ぎない。
しかし、その内側に飼い慣らした執念は、すでに狂気の域に達していた。
彼は数ヶ月の時間をかけ、会社の資産である最新鋭ドローンを1台、また1台と私的な目的のために掠め取り、この闇の司令室を築き上げたのだ。
目的は、ただひとつ。
今や海の「生ける神」となったサラ・エヴァンスが、海底の網に絡まり、必死に藻掻き、酸素を求めて醜く溺れかけるその瞬間を、誰よりも特等席で記録すること。
その禁断の映像は、世界の裏側に君臨する飢えた富豪たちへ、天文学的な金額で売り捌くための「商品」となるはずだった。
かつて彼女の私邸を訪ね、提携を持ちかけたのもすべては偽装。
本物の「サラ」という個体の肌の質感、その隙のない呼吸の音、至近距離で漂う潮の香りを五感に刻み込み、己の歪んだ欲望に火を灯すための前戯に過ぎなかった。
林は脂ぎった指で、震える手をごまかしながらマウスを操作した。ハードディスクに残された、暗転直前の録画映像を再生する。
モニターの中で、全裸の神が断崖から真っ逆さまに降臨した。
その肉体は、まさに機能美の極致。
潜行を開始した瞬間、彼女の広背筋は扇のように広がり、海水の抵抗を受け流しながら力強い推進力を生み出していく。
大腿四頭筋は一蹴りごとに鋼のような硬度を帯び、水の塊を後方へと弾き飛ばす。
肺胞の一つ一つに極限まで酸素を詰め込み、心拍数を意図的に落としながらも、脳と筋肉には必要な血液を的確に送り込むサラの超人的な心肺機能。
映像越しですら、彼女の胸郭が水圧に耐え、内なる圧力を調整するしなやかな律動が伝わってくる。
泡の尾を引き、優雅に、かつ暴力的なまでの力強さで深淵へ墜ちていくその姿。林は唾を飲み込み、その完璧な美しさに陶酔した。
だが、その背後――。
重く暗い海水の彼方に、微かな、しかし意志を持った光の点が飛翔しているのを、エンジニアとしての鋭い眼は見逃さなかった。
「この光は……? 私のドローンではない。別の……個体か……? ……フフフ……そうか……、そういうことか!」
乾いた笑いが部屋に響く。
サラを追っていた執念深い獣は、自分だけではなかったのだ。
そして、自分が手塩にかけた精巧な8機のドローンを、同時に、かつ一瞬で電子のゴミへと変えた神業。
物理的な破壊ではなく、システムの根幹を書き換えて沈黙させるほどの圧倒的な技術力。
林の脳裏に、煮え繰り返るような憎悪とともに1人の若者の顔が浮かぶ。
「……こんな芸当ができるやつは、地球上に1人しかいない。ヘンリー・西谷……!」
林の指がキーボードをミシミシと軋ませ、ディスプレイを睨みつけた。
プライドをズタズタにされた技術者の怒りと、獲物を横取りされたストーカーの情念が混ざり合い、静かな部屋に殺意が充満していく。
その頃、サラはまだ、自身を狙う「2つの悪意」が深海で交錯していることに気づいていなかった。
サラが海底の深淵で未知なる鉄の牙――水中ドローンの強襲を受けていた、まさにその同時刻。
「龍宮」の建設予定地を臨む海岸沿い、静謐な空気を切り裂くように建つコンドミニアムの1室。
遮光カーテンによって外界の光を完全に遮断したその部屋は、墓標のような暗がりに包まれていた。
その中心で、1人の男が魂を抜かれたように立ち尽くしている。蒼溟重工の主任エンジニア、林子軒(リン・ズーシュエン)。
42歳。
彼の眼前にそびえ立つ8枚の大型ディスプレイは、つい先ほどまで超高精細な深海のパノラマを映し出していた。
だが、今はすべてが冷徹な無機質の黒へと塗り潰され、静まり返っている。
(……一体、何が起きた? 通信プロトコルは正常、ハードウェアの損壊も確認されていない。メンテナンスは完璧だったはずだ)
林は一見、どこにでもいる冴えない中年男に過ぎない。
しかし、その内側に飼い慣らした執念は、すでに狂気の域に達していた。
彼は数ヶ月の時間をかけ、会社の資産である最新鋭ドローンを1台、また1台と私的な目的のために掠め取り、この闇の司令室を築き上げたのだ。
目的は、ただひとつ。
今や海の「生ける神」となったサラ・エヴァンスが、海底の網に絡まり、必死に藻掻き、酸素を求めて醜く溺れかけるその瞬間を、誰よりも特等席で記録すること。
その禁断の映像は、世界の裏側に君臨する飢えた富豪たちへ、天文学的な金額で売り捌くための「商品」となるはずだった。
かつて彼女の私邸を訪ね、提携を持ちかけたのもすべては偽装。
本物の「サラ」という個体の肌の質感、その隙のない呼吸の音、至近距離で漂う潮の香りを五感に刻み込み、己の歪んだ欲望に火を灯すための前戯に過ぎなかった。
林は脂ぎった指で、震える手をごまかしながらマウスを操作した。ハードディスクに残された、暗転直前の録画映像を再生する。
モニターの中で、全裸の神が断崖から真っ逆さまに降臨した。
その肉体は、まさに機能美の極致。
潜行を開始した瞬間、彼女の広背筋は扇のように広がり、海水の抵抗を受け流しながら力強い推進力を生み出していく。
大腿四頭筋は一蹴りごとに鋼のような硬度を帯び、水の塊を後方へと弾き飛ばす。
肺胞の一つ一つに極限まで酸素を詰め込み、心拍数を意図的に落としながらも、脳と筋肉には必要な血液を的確に送り込むサラの超人的な心肺機能。
映像越しですら、彼女の胸郭が水圧に耐え、内なる圧力を調整するしなやかな律動が伝わってくる。
泡の尾を引き、優雅に、かつ暴力的なまでの力強さで深淵へ墜ちていくその姿。林は唾を飲み込み、その完璧な美しさに陶酔した。
だが、その背後――。
重く暗い海水の彼方に、微かな、しかし意志を持った光の点が飛翔しているのを、エンジニアとしての鋭い眼は見逃さなかった。
「この光は……? 私のドローンではない。別の……個体か……? ……フフフ……そうか……、そういうことか!」
乾いた笑いが部屋に響く。
サラを追っていた執念深い獣は、自分だけではなかったのだ。
そして、自分が手塩にかけた精巧な8機のドローンを、同時に、かつ一瞬で電子のゴミへと変えた神業。
物理的な破壊ではなく、システムの根幹を書き換えて沈黙させるほどの圧倒的な技術力。
林の脳裏に、煮え繰り返るような憎悪とともに1人の若者の顔が浮かぶ。
「……こんな芸当ができるやつは、地球上に1人しかいない。ヘンリー・西谷……!」
林の指がキーボードをミシミシと軋ませ、ディスプレイを睨みつけた。
プライドをズタズタにされた技術者の怒りと、獲物を横取りされたストーカーの情念が混ざり合い、静かな部屋に殺意が充満していく。
その頃、サラはまだ、自身を狙う「2つの悪意」が深海で交錯していることに気づいていなかった。
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