「深淵のサラ」 〜極限の潜水パフォーマンスに挑む金髪の美姫。独占欲に溺れるCEOと、立ちはだかる女帝たち〜

Mina_Underwater

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第6章 緋色の龍宮(龍墜)

6-10.在りし日の怨恨

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林には、いまだ胸の奥に沈殿したまま、どうしても忘れられない過去がある。
かつて彼は水の中で生きる男だった。
水泳で身体を鍛え上げ、呼吸と心拍を制する術を覚え、やがてその技量を買われて、2010年から中国フリーダイビング代表チームのセーフティダイバーを務めるようになった。

深度、静寂、そして生と死の境界。彼の世界は、常に水の底にあった。
転機は2014年に訪れる。
その年、合宿地のプールに、1人の若い選手が現れた。
王麗(ワン・リー)――当時21歳の大学生。

彼女はまだ粗削りで、しかし圧倒的な「光」をまとっていた。
赤いビキニをトレードマークのように身に纏い、水面に立った瞬間、場の空気が変わる。
息を吸い、潜り、そして浮上する。
その一連の動作が、まるで最初から完成されているかのようだった。

彼女は記録を一つ、また一つと塗り替えていく。
深く潜るほど、静かに、確実に。
林は、セーフティダイバーとして冷静であるべき立場にいながら、初めてその規律を忘れた。

視線が、彼女の軌道を追って離れない。
水中から浮かび上がるその瞬間、彼女が見せる、ごく短い笑顔。肺に残った最後の空気ごと、心臓を掴まれたような感覚だった。
――まずいな。
理性ではそう呟いていた。

だがその一瞬で、林は悟ってしまったのだ。
この出会いは、ただの偶然では終わらない、と。
水は彼にとって日常だった。
だがその日を境に、水は「彼女へと続く場所」に変わった。

セーフティダイバーの任務は、深海から浮上してくるダイバーを水深15メートル付近で迎え、意識障害がないかを確認しながら共に浮上することだ。

ある練習の日、リーは水深70メートルという未知の領域に挑んだ。
代表チームの誰もが到達できない深淵。
水中に迎えにいった林がそこで見たのは、この世のものとは思えない光景だった。

凄まじい水圧により身体が圧縮され、海の中でビキニが脱げ落ちていたのだ。
マスクも鼻栓もフィンもなく、一糸纏わぬ姿で深海を漂うリー。
それは、史上最高に美しい「水の女王」の降臨だった。

その神秘的な光景に、林の理性は崩壊した。
極限の興奮が股間を突き抜け、ハーフパンツの隙間から、あろうことか海中で白いものが噴き出した。
水面に上がった後、モニターをみていた仲間たちの笑いものになった。

「あらあら、私を見て興奮しちゃったの?」

リーは呆れたように笑い、林を惨めなピエロへと突き落とした。
だが、地獄はそこからだった。

翌日、合宿先のリーの部屋から盗撮カメラが発見された。
機械に詳しく、前日に醜態を晒した林に真っ先に疑いの目が向けられた。

「俺じゃない!」

と叫んだが、ホテルの支配人が「防犯カメラに林氏が映っていた」と証言したことで、彼はチームを追放された。
冤罪だった。

数年後、風の噂で知ったのは、リーが支配人に金を渡し、偽証させたという戦慄の事実。
リーという女への愛は、その瞬間にどす黒い憎悪へと変質した。
しかし、リーはその後、舞台の上ではなく、会議室という無機質な場所で終わりを迎えた。

「個人のビキニ着用禁止」

その一文が、大会規約の片隅に追記されたとき、騒動は静かに、しかし確実に広がった。
競技の純粋性だとか、伝統だとか、もっともらしい言葉が並べられたが、リーにとってそれは、海の中で呼吸を奪われるのと同じことだった。

身体は道具であり、誇りであり、限界そのものだった。その表現を否定された彼女は、運営サイドと鋭く対立し、結果、デビューから1年も経たぬうちに選手登録を抹消された。
だが――
そんな結末で、林の胸に巣食うものが晴れることはなかった。

あの年、世界大会ではロシアのフリーダイバーが、世界記録を3メートルも更新して優勝したという。
氷のように静かな海で、誰にも触れられない深度に達した、と噂に聞いた。

林は結果だけを知り、映像を見ることはなかった。
それ以降、彼はフリーダイビングという世界から、きっぱりと身を引いた。

深海は今もそこにある。
だが、自分はもう戻れない。

やがて彼は、まるで浮上するかのように別の世界へ身を移した。
ITの知識――論理と構造、すべてが「陸上」で完結する武器を携え、蒼溟重工にシステムエンジニアとして雇われた。

冷却音の低く響くサーバールーム、規則正しく瞬くLED、深度計ではなく稼働率を見つめる日々。
成果は数字で示され、評価は明確だった。
昇進もした。
地位も手に入れた。
名前を呼ばれれば、人は振り向いた。
だが、夜になると――
林の意識は、必ずあの日へ沈んでいく。

デスクに残されたコーヒーは、苦味だけを残してすっかり冷め切っている。
壁一面に並ぶ八枚のモニターは、昼だというのにすべて沈黙し、黒い鏡のように林の顔を映していた。
高級ホテルのコンドミニアム。

カーテンは正午の光を拒むように引き切られ、部屋は人工の夜に沈んでいた。
わずかな隙間から漏れた外光が、窓ガラスを薄く青く染める。
映り込む街の海は、確かに美しいはずの色をしている
――だが林には、それが光の届かない深海から仰ぎ見る、歪んだ水面にしか見えなかった。

息を止めたまま、まだ、潜っている。
肺が焼けるように軋み、時間の感覚が鈍っていく。それでも浮上する気にはなれない。ここで顔を出せば、すべてが終わると知っているからだ。

「リー……貴様の差し金か……」

喉の奥で転がした名前に、感情が湿り気を帯びる。
声は低く、隣室にさえ届かないほど抑えられているのに、自分の耳にははっきりと醜く響いた。

「……タダでは済まさんぞ」

呪詛は、吐いたそばから暗闇に吸われて消えた。
応える者はいない。ただ、電源の落ちたモニターが、何も映さないまま林を見返してくる。

正午。
外では人々が陽光の下で昼食をとり、世界は平然と回っている。
だがこの部屋では、時間も光も遮断され、林だけが沈没したままだ。

――浮上は、まだだ。
彼はそう自分に言い聞かせ、黒い画面の向こう側を、なおも睨み続けていた。
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