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【外伝】Episode-α 氷華の女王 第4章 オレゴンの雨
4-4.砕かれた自尊心
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その夜、ホテルのバルコニーには甘く重い花の香りが立ち込めていた。
黒崎は手すりに体重を預け、隣に立つコナミを盗み見た。
昼間の出来事が、刺のように胸の奥に刺さっている。
黒崎には自負があった。
学生時代は水球に打ち込み、夏になればライフセーバーとして荒波を越えてきた。
誰よりも水に近く、誰よりも逞しい肉体を持っていると信じていたのだ。
だが、今日目の当たりにしたのは、自分の次元を遥かに超えた「何か」だった。
「……あんな特技があるなんて、聞いてなかったぞ」
嫉妬に近い苦い感情が、言葉となってこぼれ落ちる。
あんなにも華奢で、分厚い黒縁メガネの奥でノートばかり取っていた「ガリ勉のオタク女」が、フィンもつけずに30メートルの深淵を嘲笑うように突き進んだのだ。
コナミはゆっくりと黒縁メガネを外し、テーブルに置いた。
月光の下で剥き出しになった彼女の素顔は、昼間の大人しい留学生の面影を脱ぎ捨て、冷徹な美しさを放っている。
彼女は赤ワインのグラスを傾け、唇を湿らせると、獲物を誘うような妖艶な微笑を浮かべた。
「……話す機会がなかっただけよ。私、16歳のときにロシアのシンクロナショナルチームにいて、オリンピックで金メダルを獲ったことがあるの」
その一言が、黒崎の自尊心を木っ端微塵に砕いた。
「金メダル……だと?」
「そう、ロシアでは『氷の女王』なんて呼ばれていたわ、すぐ引退しちゃったんだけどね」
彼女がグラスを置くために腕を伸ばした瞬間、サイドランプの光がその肢体をなぞった。
ゆったりとしたドレスの隙間から覗く、彫刻のように割れた腹直筋。
贅肉を極限まで削ぎ落とし、しなやかな鋼のような密度を感じさせる四肢のライン。
そして、深い呼吸のたびに大きく、静かに波打つ胸郭。
それは、美しく見せるための筋肉ではなく、水という異界で生き抜くために最適化された、純粋な「兵器」の美しさだった。
黒崎は戦慄した。
自分が愛していたと思っていたのは、彼女が作り上げた仮面の一つに過ぎなかったのだ。
「私にとって、水の中は地上よりも自由なの。あそこには、誰の声も届かないから」
そう語る彼女の青い瞳は、もはやオーストラリアの銀行員が手が届く場所にいないことを示していた。
常人離れした心肺機能、恐怖を麻痺させた精神。
すべてが一つの線で繋がった瞬間、黒崎の中で彼女への恋心は、畏怖と疎遠の混じり合った奇妙な感情へと変質していった。
その夜を境に、2人の間に流れる空気は目に見えて冷えていった。
会話はどこか事務的になり、触れ合う指先にもかつての熱は宿らない。
やがてMBAの課程が修了し、彼女がロシアへ、彼がオーストラリアへと帰国する頃には、2人の関係は潮が引くように、自然と、そして決定的に消滅していたのである。
黒崎は手すりに体重を預け、隣に立つコナミを盗み見た。
昼間の出来事が、刺のように胸の奥に刺さっている。
黒崎には自負があった。
学生時代は水球に打ち込み、夏になればライフセーバーとして荒波を越えてきた。
誰よりも水に近く、誰よりも逞しい肉体を持っていると信じていたのだ。
だが、今日目の当たりにしたのは、自分の次元を遥かに超えた「何か」だった。
「……あんな特技があるなんて、聞いてなかったぞ」
嫉妬に近い苦い感情が、言葉となってこぼれ落ちる。
あんなにも華奢で、分厚い黒縁メガネの奥でノートばかり取っていた「ガリ勉のオタク女」が、フィンもつけずに30メートルの深淵を嘲笑うように突き進んだのだ。
コナミはゆっくりと黒縁メガネを外し、テーブルに置いた。
月光の下で剥き出しになった彼女の素顔は、昼間の大人しい留学生の面影を脱ぎ捨て、冷徹な美しさを放っている。
彼女は赤ワインのグラスを傾け、唇を湿らせると、獲物を誘うような妖艶な微笑を浮かべた。
「……話す機会がなかっただけよ。私、16歳のときにロシアのシンクロナショナルチームにいて、オリンピックで金メダルを獲ったことがあるの」
その一言が、黒崎の自尊心を木っ端微塵に砕いた。
「金メダル……だと?」
「そう、ロシアでは『氷の女王』なんて呼ばれていたわ、すぐ引退しちゃったんだけどね」
彼女がグラスを置くために腕を伸ばした瞬間、サイドランプの光がその肢体をなぞった。
ゆったりとしたドレスの隙間から覗く、彫刻のように割れた腹直筋。
贅肉を極限まで削ぎ落とし、しなやかな鋼のような密度を感じさせる四肢のライン。
そして、深い呼吸のたびに大きく、静かに波打つ胸郭。
それは、美しく見せるための筋肉ではなく、水という異界で生き抜くために最適化された、純粋な「兵器」の美しさだった。
黒崎は戦慄した。
自分が愛していたと思っていたのは、彼女が作り上げた仮面の一つに過ぎなかったのだ。
「私にとって、水の中は地上よりも自由なの。あそこには、誰の声も届かないから」
そう語る彼女の青い瞳は、もはやオーストラリアの銀行員が手が届く場所にいないことを示していた。
常人離れした心肺機能、恐怖を麻痺させた精神。
すべてが一つの線で繋がった瞬間、黒崎の中で彼女への恋心は、畏怖と疎遠の混じり合った奇妙な感情へと変質していった。
その夜を境に、2人の間に流れる空気は目に見えて冷えていった。
会話はどこか事務的になり、触れ合う指先にもかつての熱は宿らない。
やがてMBAの課程が修了し、彼女がロシアへ、彼がオーストラリアへと帰国する頃には、2人の関係は潮が引くように、自然と、そして決定的に消滅していたのである。
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