「深淵のサラ」 〜極限の潜水パフォーマンスに挑む金髪の美姫。独占欲に溺れるCEOと、立ちはだかる女帝たち〜

Mina_Underwater

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【外伝】Episode-α 氷華の女王 第5章 沈黙のチェス

5-2.見えない糸

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エレーナ・カミンスキーが去り、ハイヒールの乾いた音がウッドデッキから遠のいてから数分後。 
広大なリビングを満たしていた張り詰めた静寂を破ったのは、チーク材の壁の一部が滑るように開いた音だった。

寝室の隠し扉から、1人の男が姿を現した。
ヘンリー・西谷。 

黒崎の右腕として、かつて「ブラックドッグ」の電脳網を一手に掌握した男だ。
彼は今朝からそこに潜伏し、最新の指向性集音マイクと音響解析デバイスを駆使して、一時間の会談を克明に記録していた。

ヘンリーの表情には、いつになく焦燥の色が混じっている。
彼は手にしていたカーボン製のノートPCを無造作にテーブルへ置くと、複雑な波形が躍る画面を黒崎へ向けた。

「黒崎さん、不穏なデータが取れました。会談中、彼女の靴……あのハイヒールから、常に微弱かつ強力な指向性電波が発信されています」
「何? 盗聴器か」

黒崎は表情を崩さぬまま、窓の外に目をやった。 
5日前、あの「青いマグカップ」の写真が添えられたメールが届いた瞬間から、黒崎の直感は、それが過去からの甘い招待状ではなく、毒を塗られた宣戦布告であることを告げていた。
だからこそ、ヘンリーを密かに呼び寄せ、邸宅を「迎撃拠点」へと作り替えていたのだ。

「はい。ですが問題はその『質』です」

ヘンリーは画面上の不規則なパルスを指差した。

「この発信源、コナミさんの意志ではオン・オフができないよう細工されています。つまり、彼女が自ら本部に情報を流しているのか、それとも彼女自身、自分が『動く盗聴器』にされていることを知らされていないのか……」

「……もし、後者だとしたら」

黒崎の声が低く、深い海の底のように沈んだ。

「そうなんです。もし後者なら、ロシア当局――SVRは、コナミさんを完全に信用していない。彼女がかつての情に流される可能性を予見し、文字通り死角なしに監視している証拠です。彼女もまた、使い捨ての駒に過ぎない」

ヘンリーは一度言葉を切り、緊張に強張った面持ちで黒崎を直視した。

「だから、黒崎さん。あなたが彼女を最後まで『ミス・カミンスキー』と呼び続け、去り際に彼女が口を滑らせた『黄色いビキニで参加させていただきます』という挑発的な約束にも、冷徹な仮面を崩さなかったのは大正解でした。もし、途中で一度でもかつての名を呼びかけ、彼女を揺さぶっていたら……監視している連中は即座に判断したでしょう。『この2人は結託する可能性がある』と」

黒崎は窓の外に広がる海に目をやった。
真昼の強烈な陽光が海面を焼き、白波の1つ1つが、見えない包囲網の綻びのように鋭く光っている。

「そう思われた瞬間、コナミもオレも、共に標的にされるというわけか」
「ええ。そうなれば、交渉も暗殺も吹き飛び、二人まとめて『リクイデート(清算)』の対象です。あの靴のチップは、彼女の命を繋ぐ糸であると同時に、いつでも首を絞められる絞首刑の縄でもある。黒崎さんの冷徹な対応が、今、彼女の心臓を辛うじて動かしているんです」

黒崎は拳を握りしめた。 
彼女が「黄色いビキニで来る」と言ったのは、監視者の目を逸らすための、彼女なりの必死の「演技」だったのか。
それとも、かつての愛を武器に自分を陥れるための罠なのか。

「……生かされているわけか。SVRの掌の上で」

「……黒崎さん、一つだけ解せないことがあります」 

ヘンリーは解析画面から目を離さず、眉をひそめた。

「そもそも、なぜ、あんな挑発的な誘い方をしたんです? 『黄色いビキニで来い』なんて……。今のあなたなら、もっと穏便に彼女を遠ざけることもできたはずだ」

黒崎は窓の外の海を静かに見つめていた。

「ヘンリー、5日前のメールを覚えているか。あの青いマグカップの写真は、ただのノスタルジーじゃない。あれは彼女が組織の目を盗んで放った、俺にしか解けない『SOS』だ」

黒崎はゆっくりと椅子に座り、組んだ指に力を込める。

「彼女は、言葉では俺を売る。だが心は助けを求めているんだ。……あの『黄色いビキニ』は、俺からの回答だよ」
「回答……? どういう意味です」
「今の彼女は、あの黒いスーツという『鎧』の中に、無数の監視デバイスを仕込まれている可能性がある。実際、ハイヒールに盗聴器があったんだろ?だが、ビキニになればどうだ? 物理的に、盗聴器や発信機を隠す余地はほとんどゼロになる。最小の布地で現れることは、彼女がすべての偽装を脱ぎ捨て、1人の人間として俺の前に立つための唯一の手段なんだ」

ヘンリーはハッとしたように顔を上げた。

「なるほど……。肌を晒させることで、強制的に『デバッグ(洗浄)』を行うというわけですか」
「そうだ。それに、監視している連中にも『色仕掛けで落とそうとしている』という誤った安心感を与えられる。布地が少なければ少ないほど、俺たちが真実を語り合える『空白』が生まれるんだ。彼女が明日、あの色を纏って現れたなら、それは俺と共に地獄へ堕ちる覚悟を決めたというサインだ」

黒崎は、卓上の冷めたココアを一気に飲み干した。

「生かされているんじゃない。俺たちが、彼女をこの支配から引きずり出すんだ」
「でも、明日のBBQ。サラもいる。エレーナは宣言通り、その『装備』でやってくるでしょう。これ以上関わるのは……」

ヘンリーの懸念を遮るように、黒崎は立ち上がり、キッチンの棚の奥から古びた小瓶を取り出した。
そこには、かつて彼女が愛した「隠し味」のシナモンと海塩が入っている。

「彼女が俺の知っているあの女なら、この味の意味に気づかないはずがない。たとえ耳元で監視者が囁いていたとしてもだ。彼女はメッセージを送ってきた。……俺も、それに応えるまでだ」

黒崎はゆっくりと、復讐と再会が混ざり合ったような複雑な手つきで、シナモンを挽き始めた。
香ばしく、どこか切ない香りが、静かな邸宅を満たしていく。

「ヘンリー、予定通り彼女を迎えよう。最高の『もてなし』を用意してな。彼女が何を纏ってこようと、俺が暴くのはその下にある真実だけだ」

その瞳には、かつて数億の金を一瞬で動かし、冷徹な知性で頂点に君臨した「ブラックドッグ」の光が、再び鋭く宿っていた。
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